日本橋人形町(にほんばしにんぎょうちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 4:45 PM
東京都中央区日本橋人形町
歌舞伎の大芝居が華やかだった頃、同時にもっと安く簡単に楽しめる人形の芝居小屋がたくさん登場したそうです。その人形を作り、直し、操る人々がこの町に多く暮らしていたと言われています。
一日がかりの贅沢な娯楽、歌舞伎を見に行けない忙しい町人さんたちが 「ちょいといってくらぁ」 と人形芝居を気軽に見に行って息抜きしてたのでしょうか。歌舞伎の役者さんとは違って姿の見えない人形繰りさんですが、少ない娯楽の担い手としてやはり人気があったでしょうね。
 そんな華やかな気質の人々がいたせいでしょうか、人形芝居の流行の後、明治には柳町、新橋と並ぶ一流の花街として全国にその名を知られるようになります。その芳町芸者の代表が、あの有名な貞奴。古い話ですが、昔の大河ドラマで松坂恵子さんが演じられていたのをよく覚えています。
 老舗とよばれる料理店も数多くあり、いまだそこかしこに粋が息づく町です。
 江戸時代の当町一帯は、北部が町人の住む町、南部の蛎殻町一帯は大名屋敷の並ぶ 武家地でした。人形町の名は江戸時代の里俗地名で、大伝馬町2丁目と通旅籠町の間 を南北に横切る通りに、古くからこの名称がありました。元禄江戸図には「さかい町 」と和泉町の間の通りに「人形町」と見えています。むかし、堺町、葺屋町に結城座 、薩摩座などの人形芝居があったころ、長谷川町の辺りに人形を造る家が多く、ある いは、手遊物・錦絵などを商う店が多く、賑わった所でした。
 正月には手鞠羽子板、3月には雛人形、5月には菖蒲人形の市がたちました。人形 町の名はこうしたところから生まれたものと思われます。
 旧人形町1丁目は、それ以前の蛎殻町2丁目及び松島町の西大部の地でした。蛎殻 町の地域は、江戸時代初期は、隅田川河口近くの西岸の埋立地で、稲荷堀より以東の 里俗地名でした。寛政12年(1800)に新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である 銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った「蛎殻銀座] のあった所です。その他の地はほとんどが大名・旗本屋敷の武家地で、幕末には上総 国請西藩水野家、陸奥国磐城平藩安藤家、播磨国姫路藩酒井家の藩邸がありました。 明治初年には民間地として払い下げられ、次第に町場となったのです。
 松島町は武家地に囲まれた町人の住む町で、江戸中期には町奉行の組屋敷が一時置 かれた所です。松島神社があったので、町名になったといわれています。
 日本橋人形町2丁目は、1丁目の北側にあたり、昭和8年2月、元大坂町の東一部 、蛎殻町2丁目の一部、住吉町の南大部分を合せて成立しました。町の東側には、かつ て久松橋の傍から入った入堀があり、この掘に面した所を住吉町裏河岸といいました 。ここには、江戸時代、かまどを作って売る者が多かったので、「へっつい河岸」と 呼ばれていました。
 高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草 に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています 。
 元大坂町は東堀留川の東側に沿った町で、天正年間(1573~1592)の頃に 、大坂の廻船がこの辺りまで入津して、大坂町となってと伝えています(『東京府志 科』)。また、大坂の人が開いたためともいわれています。その後、新大坂町が成立 したので、当地は元大坂町と改称したとされています。明治初年まで当地に沿って蛎 殻町に入る土井堀がありました。なお、人形町2丁目の一部の地には、幕末頃に美濃 国加納藩永井家の藩邸があり、一部が武家地であったことがわかります。
 日本橋人形町3丁目は、旧人形町3丁目と芳町2丁目の地で昭和55年に成立し ました。旧人形町3丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の 各一部からなっていました。  新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町 に近いので、和泉国堺(大阪府)の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像 されます。
 町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸 の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。地 内1番地には、江戸時代初期の元和年間(1615~24)に幕府の奥医師岡本玄 冶が、1,500坪に及ぶ広大な拝領屋敷をもらって住んでいました。人々は玄冶店と呼 び、歌舞伎の世界で知られています。
 芳町の一帯には1万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。
 堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中(1596~1615)の開創なり、 此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」とし て、堺町となったと記しています。寛永年間(1624~44)に中村座が開業して からは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓 楽街になりました。
 堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間 (1600~24)に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町 名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。

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