日本橋室町(にほんばしむろまち)

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東京都中央区日本橋室町
室町1丁目は、昭和7年9月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町1丁目・2丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町1丁目と改めました。
 2丁目は昭和7年9月、本町2丁目の南半、2丁目・3丁目の南の一部、室町3丁目、駿河町の北大部、本革屋町東大部、瀬戸物町の北一部、伊勢町の一部を合併して出来た町です。昔と比べて実にややこしい分け方で町が出来たのですが西側では三井越後屋が構えた町といった感じがします。
 延宝元年(1673)初代三井高利が本町2丁目に店を出し、天和3年(1683)店を駿河町に移して、「現銀掛値なし」の新商法によって今日の大をなすまで、室町と三井家とは、呉服屋、両替店の経営から、明治以後の室町一帯は三井系列の会社で占められているといってよいほどです。旧室町2丁目と3丁目の間、「駿河町より瀬戸物町へ通ずる道は、江戸第一の金銀通貨の往来する道路なり」といって三谷とか中井とか、三井、竹原など、著名な富商の名をあげています。また、定飛問屋の存在についても、「此等の営業日に日々金銀の出入りするには、此横町を通らざるものなし、千両箱を車に積み或は棒に担ひ、手代附添で運搬す。其頃毎日10万両程は往来せり。今は10万円は風呂敷に包み持運べるが、十10万両の金量は容易ならず。中等の人は千両の金も並べて見る事さえ難き世の中、斯の如き通貨の頻繁に往来するは、江戸広しとも雖も、他の町にあらざる所なり」と風俗画報の397号に天保老人文の舎という人が「見聞記憶の侭」と題して述べています。日本橋室町という一帯、商業金融界にとっていかに大きな地位を占めていたかが、うかがえます。
 もちろん商業地として目ぬきの所です。金融業ばかりでなく、室町2丁目西側には瀬戸物町にあった「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋であり、日本橋川沿いには魚問屋も並んでいたので、この左右両町の地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。旧本町1丁目は本石町に変り、旧本町2丁目が、室町2・3丁目に変りましたが。本町2丁目には江戸総町を支配する樽藤左衛門の屋敷があり、それだけでも、重きをなした町でした。  室町3丁目も昭和7年9月の改正で、本町2丁目の北半と3丁目の西一部、十軒店町、金吹町の東半、本石町2丁目の南半、同3丁目の西一部を合併して出来た町で、室町2丁目と同様、三井系列の大会社の建物が占めているような町といってよいほどです。 旧本石町2丁目には幕府菓子の御用達金沢丹後の店があって有名でした。江戸の菓子舗として大久保主水と並び称せられた店でした。  次に十軒店ですが、古くから、ここには雛人形を売る店があり、3月の雛の節句と5月の端午の節句の2回、2月下旬から3月3日まで、4月下旬から5月5日まで人形の市が立ち、大群集の雑踏で大いに賑わったことで有名です。
 室町4丁目は、昭和7年9月の大改正で、本銀町2丁目、3丁目の西一部本石町2丁目の北半、3丁目の西一部を合併して出来た町です。今は埋立てられてしまいましたが龍閑川に接した北部からこちらは、いずれも有数の商店街でした。中でも本石町2丁目にあった近江屋五郎兵衛は、土地を各地に16ヶ所も持ち、大地主として知られ、呉服問屋としては店員などを31人も置く大店として有名でした。
  昔の本石町3丁目の角には有名なオランダ宿「長崎屋」があって、海外文化を江戸市民にもたらす唯一の窓の役割を果たす所として知られ、長崎から和蘭の商館長一行が江戸参府をする際の宿泊所でした。
  この室町4丁目は、問屋街として知られた町ですが、蝋燭の著名な問屋がいくつかあったほか、神田今川橋よりは瀬戸物問屋がまとまってあるなど、いろいろな問屋の町でもあったようです。

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