練塀町(ねりべいちょう)
練塀(ねりべい)とは、瓦(かわら)と練土(ねりつち)を交互に積みあげ、上を瓦で葺(ふ)いた土塀(どべい)のことです。瓦と土の織(お)りなす縞模様(しまもよう)が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。
江戸時代のこの界隈(かいわい)は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷(したや)まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い資料を見てみると、「町の南隅(みなみすみ)の河野某(なにがし)の屋敷の練塀が立派だった」とあります。
また、ここには歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』や講談『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』で有名な御数寄屋坊主(おすきやぼうず)、河内山宗春(こうちやまそうしゅん)も住んでいたといわれています。
練塀町が正式な町名になったのは、明治五年(一八七二)のことです。明治十一年(一八七八)、町はいったん下谷区(現在の台東区)に編入されます。その後、昭和十八年(一九四三)に、南半分が神田区に編入され、昭和二十二年(一九四七)、千代田区ができたときに神田練塀町(かんだねりべいちょう)になりました。
さて、明治二十三年(一八九〇)、町内に国鉄の秋葉原(あきはばら)貨物駅ができ、おもに東北地方からの物資の受け入れ口になりました。大正十二年(一九二三)の関東大震災後に、町の西部に神田青果市場が移ってくると、練塀町は東京の物流拠点のひとつになりました。平成十七年(二〇〇五)には常磐(じょうばん)新線が完成し、電機の町はさらに大きな変貌(へんぼう)を遂(と)げました。
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