鍛冶町二丁目(かじちょうにちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 7:20 PM
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 今川橋交差点から中央通りをJR神田駅方面へ向かうとすぐに「謄写版発祥の地」という銅板が神田中央通りビルに壁にかかげてあります。謄写版とはいわゆる”ガリ版”で、明治二十七年に堀井新次郎父子が発明したものです。安くて手軽な印刷機として、ほんの十年前まで学校や役所などの必需品でした。描かれた銅板に刻まれた絵を見ると、明治中期のころはまだ店の前を鉄道馬車が通っていたことがわかります。
 中央通りをさらに北上すると、神田駅駅東口の横断歩道のところに「鍛冶町二丁目」の町名由来板が立っています。
 明治後期の地図によると、この辺りは上白壁町や下白壁町の町名が見え、左官職人が多く住んでいました。落語や講談の「大岡政談」でおなじみ、町奉行所の大岡越前守忠相がみごとな裁きぶりを発揮した「三方一両損」の話がありますが、登場人物のひとり、左官の金太郎もここに住んでいたことになっています。ただし「大岡政談」として伝えられる話はほとんどフィクションです。将軍吉宗の時代、享保の改革のもと、江戸市中の整備を推進したのが大岡越前守でした。消費者物価を安定させ、防火のために町火消しいろは四十八組を編成したのも彼だったのです。
その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈(かいわい)には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。
 鍛冶町(かじちょう)の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀(なぎなた)といった打物(うちもの)を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
 そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、下駄(げた)の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあったこともわかります。
 戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮(しんちゅう)・鉄販売店などが軒(のき)を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。
 昭和二十二年の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。

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