神田鍛冶町三丁目(かんだかじちょうさんちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:24 PM
神田鍛冶町三丁目
 JR神田駅北口の中央通り沿いに「神田鍛冶町三丁目」の町名由来板が立っています。
 神田駅周辺の猥雑で活気あふれる雰囲気は、江戸・明治と引き継がれてきたものにちがいありません。商店や職人の仕事場がびっしりと立ち並んだ様子が想像出来ます。
そんな町ですから、生活に必要な物はたいてい近所で手に入るという便利なところでした。アナウンサーの卵などが発声練習で使う早口言葉にこんなものがあって流行したこともあります。
 「神田鍛冶町の角の乾物屋の
 勝ち栗買ったが固くて噛めない
 返して帰ろう
 返しにいったら
 乾物屋の内儀が帰ってきて
 噛んだもの返せない
 癇癪起こしてかりかり噛んだら
 かりかり噛めた」
 勝ち栗は、「勝って勝ち栗 よろ昆布」というように、固いけれどめでたいものの代表でした。ちなみに角の乾物屋はいまもあるそうです。
 この界隈(かいわい)が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)をつとめていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋(なべ)や釜(かま)をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。
 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』によれば、紅(べに)や白粉(おしろい)などの化粧品、傘(かさ)、菓子(かし)、釘(くぎ)や打物(うちもの)などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
 明治のはじめ、隣接するいくつかの横町(よこまち)を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873)、一部が黒門町(くろもんちょう)に編入され、さらに昭和八年(1933)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和二十二年(1947)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を「神田鍛冶三会」と改め、今日にいたっているのです。

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