内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:53 PM
内神田一丁目
 日本橋川に沿った鎌倉河岸は物の往来がずいぶん活発な場所でした。そのにぎわいを物語るように、鎌倉河岸の一端である神田橋交差点に「物揚場跡」の重厚な石碑が横たわっています。いわく、
 日本橋川水運の物揚場標石 ここに出土す
 往時をしのぶよすがとして後世に伝える
 その石碑のとなりに「内神田一丁目」の町名由来板が立っています。
 ここには約九〇世帯の住民が住む区立内神田住宅があります。オフィスビルがひしめく大手町の目と鼻の先に、こんな住宅があるというのはすこし意外かもしれませんが、ツツジやハナミズキなど四季折々の草花で彩られています。
 その内神田住宅の前、日本橋川に架かるのが神田橋です。江戸期には神田橋御門がありましたが、江戸初期のころには橋の近くに土井大炊頭の屋敷があったところから、「大炊殿橋」と呼ばれていました。
 橋のたもとにある神田橋公園内には「太田圓三君像」があります。関東大震災の後、帝都復興院の土木局長として骨身を削って復興に尽くし、その苦労がもとで若くして亡くなった人物でした。
 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈(かいわい)には、荷揚(にあ)げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用しました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺(かんえいじ)や日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)への御成道(おなりみち)(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
 明治五年(1872)、いったん美土代町(みとしろちょう)となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966)、内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)に編入されました。
 昭和五十八年(1983)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004)、町会名は神田橋町会と変わりました。

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