多町一丁目(たちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 7:23 PM
多町一丁目
JR神田駅西口を出て多町大通りを神田淡路町方面へ行くと、すぐに「多町一丁目」の町名由来板があります。この町はもと「竪大工町(たてだいくちょう)」と呼ばれていました。大工は日銭が入る商売柄でしょうか、「宵越しの銭はもたねぇ」と気風のいいところを見せる江戸っ子が多かったそうです。
町内には、火消しに使う纏をつくる「纏屋」がありました。広い江戸の中でも纏をつくっていたのはここだけで、代々「石田次郎右衛門」を襲名しました。「芝に生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち」と、江戸で流行した端唄にも出てくるとおり、江戸っ子にとってもっともかっこいい存在が纏持ちでした。火事ともなれば燃え盛る家の屋根に上がり、纏をふるって火をはらい、燃え崩れる寸前にとなりの屋根に飛び移るという町火消の中でも難しい役が纏持ちでした。
神田駅周辺の町名には竪大工町のほかに「鍛冶町」「塗師長」「鍋町」などと職業を表す名前があちこちにありました。これは江戸時代から職人達が多く住んでいたためで、「二本差しが怖くって目指しが食えるか」という武士の権威への対抗意識が強く、弱きを助ける男気が強い地域でした。上方から来て日本橋に大店を張る大商人達への敵対心もあって、なにかにつけて「粋」を重んじるのが江戸っ子だったのです。
江戸時代、この界隈には神田竪大工町や、新石町一丁目といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で、寛永年間(1624-1644)には町が成立していたことが『寛永江戸図』などからわかります。
このうち竪大工町には、幕府の御用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語で知られる大岡越前守忠相の名奉行ぶり、「三方一両損」に登場する大工の吉五郎もこの町の住人でした。また、火消しの組の纏をつくる「纏屋次郎右衛門」の店もこの町にありました。
一方、新石町一丁目は、俗に「河合新石町」とも呼ばれていました。明暦三年(1657)の『新添江戸之図』にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。
ふたつの町は、それぞれ竪大工町、新石町と改名しながらも、昭和初期まで存続していましたが、昭和八年(1933)、新たに多丁一丁目となり、町会を結成し、また一部は鍛冶町二丁目に編入されました。
昭和四十一年(1966)、昭和にできた多町一丁目は、住居表示の実施により内神田三丁目と変わり、現在に至っています。

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