神田鎌倉町(かんだかまくらちょう)・鎌倉河岸(かまくらがし)

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神田鎌倉町・鎌倉河岸
 神田司町一丁目町名由来板から外堀通りを南に下って鎌倉橋交差点を東に入ると、千代田区の総合体育館があります。その前に「神田鎌倉町・鎌倉河岸」の町名由来板は立っています。
 鎌倉橋は関東大震災後に復興された橋で、昭和四年の架橋です。その鎌倉橋の北岸一帯は、江戸城を築くときに鎌倉からの石材を陸揚げした河岸だったので、「鎌倉河岸」と呼ばれるようになりました。相模国から切り出した石材を筏に載せて海から日比谷入江、そして平川を遡ってここまで運ばれてきたのです。
 また、江戸時代の鎌倉河岸には「豊島屋」という有名な酒屋があって、雛祭りに売る白酒がたいへん有名でした。あまりの客の多さに卒倒する人も出るので医者が待機していたほどの盛況ぶりだったといいます。
 町内には神田明神に移った浦安稲荷神社がありました。また、家康ゆかりの御宿稲荷神社があります。江戸はとかく稲荷神社の多い都市でした。武家の屋敷には稲荷神社が必ずあり、そこが町家に変わっても地域の人々がお稲荷さまを守り続けました。俚諺に「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」というのは、伊勢出身の商人とお稲荷さまと野良犬が多かったことをからかったものです。
 御宿稲荷のすぐそばにいまもある「稲荷湯」という銭湯は、皇居のまわりでジョギングをする人たちが愛用しています。その横にある内神田尾嶋公園は、ここに長く住んでいたご夫婦が区に寄付した土地で、平成九年に区立の公園としてオープンしました。
 天正(てんしょう)十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長(けいちょう)八年 (1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。
 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦(めいれき)三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
 江戸城築城に際して、家康が近江(おうみ)から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方(さくじかた)の大棟梁(だいとうりょう)として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺(ぞうじょうじ)、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。
 また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園(おじまこうえん)のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。
 昔、潮入(しおい)りの葦原(あしはら)だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤(あつ)い信仰を寄せていた「浦安稲荷(うらやすいなり)神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保(てんぽう)十四年(1843)に遷座(せんざ)され、現在は神田明神(かんだみょうじん)の境内にあります。
 「出世不動尊」は、一橋(ひとつばし)徳川家の表鬼門除(おもてきもんよ)けとして祀(まつ)られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。

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