多町二丁目(たちょうにちょうめ)

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多町二丁目
 多町大通りをさらに北上し、一八通りを右折すると「多町二丁目」の町名由来板があります。この中にある江戸後期の地図には幕府の「青物役所」の文字が見られます。ここに青果市場が開かれ、多い時には九十軒あまりの問屋が軒をつらねていたといいます。
 多町大通りおよび日銀通りの道の下にはわが国初の西洋式下水道の「神田下水」が埋設されています。
 江戸時代、屎尿は農家の貴重な「下肥(肥料)」として畑に運ばれました。それゆえ、欧米の大都市のように川を汚染する事はなく、隅田川は大変きれいな川でした。ところが明治十年に神田周辺でコレラが発生したのです。当時の神田地区は人が多く集まっていたためにとくに被害が大きくなりました。そこで衛生管理の必要を痛感した明治政府は東京府知事に近代下水道の整備を命じたのです。明治十七年につくられた神田下水は、卵形の形状で水量の多少にかかわらず水がスムーズに流れる構造だったので、完成後100年以上を経た今でもその機能を十分に果たしています。そして現在は、東京都指定史跡にもなっています。
  千代田小通りを少し小道に入ると一八稲荷があります。通りの名前にもなっているこのお稲荷さまは江戸初期から町の守護神で、一と八の日に縁日が開かれたのでそう呼ばれるようになったそうです。
 慶長(けいちょう)八年(1603)、徳川家康は荒涼たる武蔵国(むさしのくに)、江戸に幕府を開いて全国支配の中心とするとともに、神田・日本橋・京橋で町づくりを始めました。
 寛永(かんえい)年間(1624~1644)以前に成立した町を江戸古町(えどこちょう)といい、神田には二十二の古町がありました。慶長十一年(1606)に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。
 慶長(1596~1615)のころ、田町一丁目(現・多町二丁目)にできた青物(野菜)市は、草創名主(くさわけなぬし)(江戸成立期からの名主)の河津五郎太夫(かわづごろうだゆう)が開いたとされ、それは明暦(めいれき)の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となりました。市場の繁栄と町の賑(にぎ)わいとともに、町名も「多町」へと変わりました。相対取引(あいたいとりひき)(話し合いで取引すること)で栄えた神田青物市場は、昭和三年(1928)に秋葉原(あきはばら)へと移転するまで約二百七十年間続きました。市場は、江戸・東京の食を供給しつつ、粋(いき)な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。
 関東大震災後に道路や町が整備され、昭和八年(1933)には町名地番が改編されます。これによって三百三十年続いた(旧)多町一丁目と(旧)多町二丁目などが合併してできた町会が、現代の多町二丁目町会です。当時、新たにつくられた(新)多町一丁目は、昭和四十一年(1966)の住居表示の実施で内神田三丁目に編入されたために、今は多町二丁目だけになりました。

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