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	<title>神田・日本橋・秋葉原に住む</title>
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	<description>神田・日本橋・秋葉原に住みたくなる、不動産と街の情報サイト</description>
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		<title>日本橋人形町（にほんばしにんぎょうちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 07:45:22 +0000</pubDate>
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歌舞伎の大芝居が華やかだった頃、同時にもっと安く簡単に楽しめる人形の芝居小屋がたくさん登場したそうです。その人形を作り、直し、操る人々がこの町に多く暮らしていたと言われています。
一日がかりの贅]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.685531,139.784103&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.685531,139.784103&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.685531,139.784103&amp;cbp=1,244.74,,0,-10.68&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋人形町">東京都中央区日本橋人形町</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.685531,139.784103&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.685531,139.784103&amp;t=h&amp;z=19&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都中央区日本橋人形町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.685531,139.784103,red&amp;zoom=19&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都中央区日本橋人形町" title="東京都中央区日本橋人形町" /></a>

歌舞伎の大芝居が華やかだった頃、同時にもっと安く簡単に楽しめる人形の芝居小屋がたくさん登場したそうです。その人形を作り、直し、操る人々がこの町に多く暮らしていたと言われています。<br />
一日がかりの贅沢な娯楽、歌舞伎を見に行けない忙しい町人さんたちが　「ちょいといってくらぁ」　と人形芝居を気軽に見に行って息抜きしてたのでしょうか。歌舞伎の役者さんとは違って姿の見えない人形繰りさんですが、少ない娯楽の担い手としてやはり人気があったでしょうね。<br />
　そんな華やかな気質の人々がいたせいでしょうか、人形芝居の流行の後、明治には柳町、新橋と並ぶ一流の花街として全国にその名を知られるようになります。その芳町芸者の代表が、あの有名な貞奴。古い話ですが、昔の大河ドラマで松坂恵子さんが演じられていたのをよく覚えています。<br />
　老舗とよばれる料理店も数多くあり、いまだそこかしこに粋が息づく町です。
<blockquote>　江戸時代の当町一帯は、北部が町人の住む町、南部の蛎殻町一帯は大名屋敷の並ぶ 武家地でした。人形町の名は江戸時代の里俗地名で、大伝馬町2丁目と通旅籠町の間 を南北に横切る通りに、古くからこの名称がありました。元禄江戸図には「さかい町 」と和泉町の間の通りに「人形町」と見えています。むかし、堺町、葺屋町に結城座 、薩摩座などの人形芝居があったころ、長谷川町の辺りに人形を造る家が多く、ある いは、手遊物・錦絵などを商う店が多く、賑わった所でした。<br />
　正月には手鞠羽子板、３月には雛人形、５月には菖蒲人形の市がたちました。人形 町の名はこうしたところから生まれたものと思われます。<br />
　旧人形町１丁目は、それ以前の蛎殻町２丁目及び松島町の西大部の地でした。蛎殻 町の地域は、江戸時代初期は、隅田川河口近くの西岸の埋立地で、稲荷堀より以東の 里俗地名でした。寛政１２年（1800）に新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である 銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った「蛎殻銀座] のあった所です。その他の地はほとんどが大名・旗本屋敷の武家地で、幕末には上総 国請西藩水野家、陸奥国磐城平藩安藤家、播磨国姫路藩酒井家の藩邸がありました。 明治初年には民間地として払い下げられ、次第に町場となったのです。<br />
　松島町は武家地に囲まれた町人の住む町で、江戸中期には町奉行の組屋敷が一時置 かれた所です。松島神社があったので、町名になったといわれています。<br />
　日本橋人形町２丁目は、１丁目の北側にあたり、昭和８年２月、元大坂町の東一部 、蛎殻町２丁目の一部、住吉町の南大部分を合せて成立しました。町の東側には、かつ て久松橋の傍から入った入堀があり、この掘に面した所を住吉町裏河岸といいました 。ここには、江戸時代、かまどを作って売る者が多かったので、「へっつい河岸」と 呼ばれていました。<br />
　高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草 に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています 。<br />
　元大坂町は東堀留川の東側に沿った町で、天正年間（1573～1592）の頃に 、大坂の廻船がこの辺りまで入津して、大坂町となってと伝えています（『東京府志 科』）。また、大坂の人が開いたためともいわれています。その後、新大坂町が成立 したので、当地は元大坂町と改称したとされています。明治初年まで当地に沿って蛎 殻町に入る土井堀がありました。なお、人形町２丁目の一部の地には、幕末頃に美濃 国加納藩永井家の藩邸があり、一部が武家地であったことがわかります。<br />
　日本橋人形町３丁目は、旧人形町３丁目と芳町２丁目の地で昭和５５年に成立し ました。旧人形町３丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の 各一部からなっていました。
　新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町 に近いので、和泉国堺（大阪府）の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像 されます。<br />
　町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸 の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。地 内１番地には、江戸時代初期の元和年間（1615～24）に幕府の奥医師岡本玄 冶が、1,500坪に及ぶ広大な拝領屋敷をもらって住んでいました。人々は玄冶店と呼 び、歌舞伎の世界で知られています。<br />
　芳町の一帯には１万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。<br />
　堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中（1596～1615）の開創なり、 此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」とし て、堺町となったと記しています。寛永年間（1624～44）に中村座が開業して からは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓 楽街になりました。<br />
　堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間 （1600～24）に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町 名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。 </blockquote>

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		<title>日本橋大伝馬町（にほんばしおおでんまちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 07:39:46 +0000</pubDate>
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　大伝馬町という町名の成立は古く、江戸開府のころには、現在の千代田区にある皇居の呉服橋の辺りにありました、伝馬とは馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度をいいます。その役所が江戸城の呉服橋門内に]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.689812,139.779267&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.689812,139.779267&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.689812,139.779267&amp;cbp=1,319.79,,0,-20.39&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋大伝馬町">東京都中央区日本橋大伝馬町</a>
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<blockquote>　大伝馬町という町名の成立は古く、江戸開府のころには、現在の千代田区にある皇居の呉服橋の辺りにありました、伝馬とは馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度をいいます。その役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となったのです。<br />
　慶長11年（1606）に隅田川河口の浜町一帯の海兵の埋立てが完了した後に、現在地に大伝馬町は移転しました。当時は西から東へ大伝馬町1～2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていました。伝馬役を務める馬込勘解由も旧大伝馬町2丁目の北側に屋敷地を拝領し、伝馬役と町名主を世襲で務めました。<br />
　馬込氏は三河（愛知県）の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。<br />
　旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。 <br />
　馬込氏は三河（愛知県）の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。<br />
　旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。 </blockquote>

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		<title>日本橋小伝馬町（にほんばしこでんまちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 07:15:11 +0000</pubDate>
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　江戸時代の当町域は、神田堀（神田八丁堀）に面した町人町で、小伝馬町１～３丁目・小伝馬上町・亀井町・元岩井町埋立地・柳原岩井町上納地の全域及び通旅籠町・大伝馬町２丁目の各一部から成りたっていま]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.692591,139.779929&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.692591,139.779929&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.692591,139.779929&amp;cbp=1,147.18,,0,-8.3&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋小伝馬町">東京都中央区日本橋小伝馬町</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.69208842540095,139.77897763252258&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.69208842540095,139.77897763252258&amp;t=h&amp;z=17&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都中央区日本橋小伝馬町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.69208842540095,139.77897763252258,red&amp;zoom=17&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都中央区日本橋小伝馬町" title="東京都中央区日本橋小伝馬町" /></a>

<blockquote>
　江戸時代の当町域は、神田堀（神田八丁堀）に面した町人町で、小伝馬町１～３丁目・小伝馬上町・亀井町・元岩井町埋立地・柳原岩井町上納地の全域及び通旅籠町・大伝馬町２丁目の各一部から成りたっていました。<br />
　この地は徳川家康が江戸に入部する以前は、千代田村といわれ、奥州街道が通っていました。六本木という宿駅があったといいます。<br />
　はじめ小伝馬町は大伝馬町と共に伝馬町といわれ、慶長１１年（1606）に江戸城内にあった伝馬役を務める人々がいた町であったのを当地に移転した町でし。旧小伝馬町は１～３丁目に分かれ、小伝馬町１丁目の北半分は、小伝馬町の牢獄の地域になっていました。１～３丁目の町名主は宮辺又四郎が代々世襲して勤めました。<br />
　寺院があり、東光寺と地蔵院は明暦３年（1657）の大火の時、浅草（台東区）へ移転しています。京橋の金六町と同じく障子などの建具職人と長持つくりの職人等の多い町でした。商売としては、布地や家具や塗物を商う商人が多く、畳屋・附木屋・指物師がおり、職人の町としても賑わっていました。１丁目には大仏師の元慶がおり、幕末には質屋１軒と資料に見えています。 </blockquote>

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		<title>日本橋本町（にほんばしほんちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 07:04:03 +0000</pubDate>
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　本町１丁目は、昭和７年９月、伊勢町の一部、瀬戸物町の東一部、東小田原町の東半、安針町東大部、本船町の東大部、それに長浜町の通路を合併して出来た町です。安針町などは家康入国前からあった江戸のみさき]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.687742,139.776287&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.687742,139.776287&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.687742,139.776287&amp;cbp=1,294.7,,0,-12.68&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋本町">東京都中央区日本橋本町</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.687742,139.776287&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.687742,139.776287&amp;t=h&amp;z=18&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都中央区日本橋本町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.687742,139.776287,red&amp;zoom=18&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都中央区日本橋本町" title="東京都中央区日本橋本町" /></a>

<blockquote>　本町１丁目は、昭和７年９月、伊勢町の一部、瀬戸物町の東一部、東小田原町の東半、安針町東大部、本船町の東大部、それに長浜町の通路を合併して出来た町です。安針町などは家康入国前からあった江戸のみさきに当るなどの説もあり、ウイリアム・アダムスが拝領した土地として知られています。勿論後には魚市場になりました。江戸が賑やかになってからは、鳥問屋が多くあったといわれています。本小田原町は本町１丁目と室町１丁目にまたがった町になりましたが、初期の建設時代には石置場だったので本小田原町の名がついたといいます。勿論魚市場内でした。本船町も同様、両町に別れ、魚河岸の魚問屋で賑わった所でした。昔は堀留町の一部もここにあり、堀留川が流れていて、伊勢町も一部をなし、物資、特に乾物穀類がここに荷揚げされたなどの話もあり、江戸商業の中心をなしていたことはいうまでもないようです。<br />

　本町２丁目は昭和７年９月、伊勢町の北の大部と瀬戸物町の一部、大伝馬町１丁目の南一部堀留町１丁目、本町４丁目の南半、本町３丁目の南一部を合わせて出来た町ですので、まず大体は本町１丁目と似た江戸商業の中心地でした。<br />
　今でも、山之内製薬、三共ヨード、大日本製薬、田辺製薬など、ビルの林立した町ですが、江戸以来の薬品問屋の町で、薬の仕入にはここに来なくてはならなかったほどの町でした。関東大震災までは各店々の金看板のずらりと軒なみ続いた姿は、日本橋の一名物といわれました。<br />

　本町３丁目は昭和７年９月、本町３丁目の東一部と、４丁目の北半、大伝馬町１丁目の北大部、鉄砲町の南一部、本石町３丁目の南一部、同４丁目の南半、岩附町を合併して出来た町で、随分変化のあった町です。旧本町３丁目には江戸町方を総支配する町年寄の一人、喜多村の宅がありました。大伝馬町は朱印伝馬を勤める町として、何かにつけ江戸の町の筆頭として名主馬込勘解由と共に重要な地位を占めていました。この大伝馬町、１・２丁目とも木綿問屋が多く、南北両側とも、同業者のみで、木綿店とよばれ、伊勢商人の中心で、ただ一軒だけ伊勢屋源七という砂糖店があったのみという話です。<br />
　 この辺は宝田えびす神社の恵比須講に、べったら市がたち、路上で浅漬の大根を売る年中行事が、今もなお続いています。
　宝田恵比須神社は「商売繁昌、開運の神」として信仰が厚く、本尊は運慶作などともいわれ、家康が寄進したなどとの伝説もあり、古くからの神社として、大伝馬町の発展と共に厚く商家の人々に信仰されて来た話もあります。毎年江戸の商家では１０月２０日に「恵比須講」といって、恵比須神を大黒と共に祀り、鯛などを供えて祀る風習があり、それ等の供物を売る市が立ったといいます。<br />

　本町４丁目は３丁目の北の町で、昭和７年９月、本銀町３丁目東大部分と鉄砲町北半を合併して出来た町で、町北は龍閑川の河岸地であったが、今は埋めたてられてありません。昔は大伝馬町に属した地で、行徳から来る塩をこの河岸の入堀で陸あげして馬に積んだので岡附塩町などとよばれた時もあったといいます。鉄砲町は３丁目・４丁目に編入されてなくなりましたが、幕府の鉄砲師胝宗八郎の受領地として知られていました。旧本石町３丁目は、石町とよばれ、鐘撞新道にあった石町の鐘は時の鐘の第１号として有名で、辻源七が管理していました。今は十思公園内に保存されています。 </blockquote>

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		<title>日本橋室町（にほんばしむろまち）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 04:52:01 +0000</pubDate>
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室町１丁目は、昭和７年９月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町１丁目・２丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町１丁目と改めました。
　２丁目は]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.684886,139.774528&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.684886,139.774528&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.684886,139.774528&amp;cbp=1,349.69,,0,-19.68&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋室町">東京都中央区日本橋室町</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.684886,139.774528&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.684886,139.774528&amp;t=h&amp;z=17&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都中央区日本橋室町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.684886,139.774528,red&amp;zoom=17&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都中央区日本橋室町" title="東京都中央区日本橋室町" /></a>

<blockquote>室町１丁目は、昭和７年９月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町１丁目・２丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町１丁目と改めました。<br />
　２丁目は昭和７年９月、本町２丁目の南半、２丁目・３丁目の南の一部、室町３丁目、駿河町の北大部、本革屋町東大部、瀬戸物町の北一部、伊勢町の一部を合併して出来た町です。昔と比べて実にややこしい分け方で町が出来たのですが西側では三井越後屋が構えた町といった感じがします。<br />
　延宝元年（1673）初代三井高利が本町２丁目に店を出し、天和３年（1683）店を駿河町に移して、「現銀掛値なし」の新商法によって今日の大をなすまで、室町と三井家とは、呉服屋、両替店の経営から、明治以後の室町一帯は三井系列の会社で占められているといってよいほどです。旧室町２丁目と３丁目の間、「駿河町より瀬戸物町へ通ずる道は、江戸第一の金銀通貨の往来する道路なり」といって三谷とか中井とか、三井、竹原など、著名な富商の名をあげています。また、定飛問屋の存在についても、「此等の営業日に日々金銀の出入りするには、此横町を通らざるものなし、千両箱を車に積み或は棒に担ひ、手代附添で運搬す。其頃毎日１０万両程は往来せり。今は１０万円は風呂敷に包み持運べるが、十１０万両の金量は容易ならず。中等の人は千両の金も並べて見る事さえ難き世の中、斯の如き通貨の頻繁に往来するは、江戸広しとも雖も、他の町にあらざる所なり」と風俗画報の３９７号に天保老人文の舎という人が「見聞記憶の侭」と題して述べています。日本橋室町という一帯、商業金融界にとっていかに大きな地位を占めていたかが、うかがえます。<br />
　もちろん商業地として目ぬきの所です。金融業ばかりでなく、室町２丁目西側には瀬戸物町にあった「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋であり、日本橋川沿いには魚問屋も並んでいたので、この左右両町の地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。旧本町１丁目は本石町に変り、旧本町２丁目が、室町２・３丁目に変りましたが。本町２丁目には江戸総町を支配する樽藤左衛門の屋敷があり、それだけでも、重きをなした町でした。
　室町３丁目も昭和７年９月の改正で、本町２丁目の北半と３丁目の西一部、十軒店町、金吹町の東半、本石町２丁目の南半、同３丁目の西一部を合併して出来た町で、室町２丁目と同様、三井系列の大会社の建物が占めているような町といってよいほどです。 旧本石町２丁目には幕府菓子の御用達金沢丹後の店があって有名でした。江戸の菓子舗として大久保主水と並び称せられた店でした。
　次に十軒店ですが、古くから、ここには雛人形を売る店があり、３月の雛の節句と５月の端午の節句の２回、２月下旬から３月３日まで、４月下旬から５月５日まで人形の市が立ち、大群集の雑踏で大いに賑わったことで有名です。<br />

　室町４丁目は、昭和７年９月の大改正で、本銀町２丁目、３丁目の西一部本石町２丁目の北半、３丁目の西一部を合併して出来た町です。今は埋立てられてしまいましたが龍閑川に接した北部からこちらは、いずれも有数の商店街でした。中でも本石町２丁目にあった近江屋五郎兵衛は、土地を各地に１６ヶ所も持ち、大地主として知られ、呉服問屋としては店員などを３１人も置く大店として有名でした。<br />
　 昔の本石町３丁目の角には有名なオランダ宿「長崎屋」があって、海外文化を江戸市民にもたらす唯一の窓の役割を果たす所として知られ、長崎から和蘭の商館長一行が江戸参府をする際の宿泊所でした。<br />
　　この室町４丁目は、問屋街として知られた町ですが、蝋燭の著名な問屋がいくつかあったほか、神田今川橋よりは瀬戸物問屋がまとまってあるなど、いろいろな問屋の町でもあったようです。 </blockquote>

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		<title>日本橋本石町（にほんばしほんごくちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 04:10:10 +0000</pubDate>
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　本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.687145,139.770281&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.687145,139.770281&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.687145,139.770281&amp;cbp=1,148.2,,0,-18.93&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都中央区日本橋本石町">東京都中央区日本橋本石町</a>
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<blockquote>　本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本石町２丁目と３丁目の間の通りには「本町通り」の称があって「将軍御成り」といった時の通過路であり、しきたりのやかましい場所でした。また、１丁目、２丁目は特に呉服商業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。<br />
　格式の高かったことは有名で、江戸の豪商の集まる場所でもあったのです。町名の由来も、江戸初期に諸国の米問屋が多く集まった町である所から本石町と名づけられたと伝えられています。江戸末期には、地廻り米問屋として小原屋清兵衛、中村屋治助、若狭屋和吉、玉屋新兵衛の名が『諸問屋名前帳』にあります。ほかに大問屋も多く、春米屋４軒。薪炭問屋２軒、炭薪仲買５軒、板木屋２軒、両替屋２軒などがあったようです。<br />
　江戸の商業は関西、特に伊勢や近江の商人に負う所の大きいことは云う迄もありません。そこに諸問屋活躍の舞台が広がっていきました。日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋という大きな商業界を左右する店々が並んでいて、一般の商店とは別に多くの店員をかかえて、活躍していました。１０人２０人などと一口にいいますが、主人はそうした店員と一緒の生活です。しかも３食、おかず付きで食べさせます。そのための人員も必要です。どんなに問屋の主人や商店の主人たちが、経営上大変だったかがわかりましょう。番頭という店の事務をやる頭分の人に仕事を任せる面があったにしても、大変でした。<br />
　その上、商売上の事ばかりでなく、町としてのいろいろな「つきあい」というものがあり、宴会なども必要でした。「問屋の主人は苦労人」という言葉、苦労しなくては店が発展しないのです。その諸問屋の集中する日本橋一帯、本町、馬喰町、大伝馬町、小伝馬町などと共に、本石町も大きな力を占める諸問屋の店々のあった所で、江戸商家の基礎を築いたといわれているほどの賑わいでした。諸問屋が並び、江戸商業の中心を占めるといっても過言でなく、家屋も明暦の大火で復興してからは、たいてい塗屋土蔵造りで、白壁のつらなる町の偉容を示していたといわれていました。昭和７年９月布告の町名変更、区画整理で、大きく町の範囲が変化し、混乱しました。それでも現在でも本石町１～４丁目は、室町１丁目から４丁目、本町１丁目から４丁目と同様、東京の明治・大正時代に至っても、江戸商業の中心地を引きついで大商業圏の一部を形成しているといえます。<br />
　本石町には今では全く忘れられているものに龍閑川の大きな土堤があります。<br />
　龍閑川は本石町４丁目の所を流れていたのですが、火除のため石を使って土手を築いて、高さ２丈４尺、長さ８町に及ぶ防火地帯としたのは、万治元年（1658）の事といわれています。『江戸名所図会』にも「明暦年間、火災を除かしめんか為に是を築しむ、今は同町本銀町２丁目・３丁目の辺、わずかに其形を残せり。延宝８年の江戸絵図に銀町１丁目より大門通りの所迄、石垣の土手をしるして松の並木を画けり」とあります。安政４年（1857）になって、これをこわして町屋にしましたが火除地の名は幕末まで残っていたといいます。龍閑川は埋め立てられてしまいましたが、場所によっては、まだつづいて少し土の盛り上がっている所があって、わかるなどと云う人もあります。 </blockquote>

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		<title>練塀町（ねりべいちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 03:45:45 +0000</pubDate>
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　練塀（ねりべい）とは、瓦（かわら）と練土（ねりつち）を交互に積みあげ、上を瓦で葺（ふ）いた土塀（どべい）のことです。瓦と土の織（お）りなす縞模様（しまもよう）が美しい塀で、関東ではとくに武士たち]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.700233,139.774431&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.700233,139.774431&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.700233,139.774431&amp;cbp=1,224.59,,0,-17.31&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都千代田区神田練塀町３">東京都千代田区神田練塀町３</a>
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<blockquote>　練塀（ねりべい）とは、瓦（かわら）と練土（ねりつち）を交互に積みあげ、上を瓦で葺（ふ）いた土塀（どべい）のことです。瓦と土の織（お）りなす縞模様（しまもよう）が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。<br />

　江戸時代のこの界隈（かいわい）は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷（したや）まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い資料を見てみると、「町の南隅（みなみすみ）の河野某（なにがし）の屋敷の練塀が立派だった」とあります。<br />

　また、ここには歌舞伎『天衣紛上野初花（くもにまごううえののはつはな）』や講談『天保六花撰（てんぽうろっかせん）』で有名な御数寄屋坊主（おすきやぼうず）、河内山宗春（こうちやまそうしゅん）も住んでいたといわれています。<br />

　練塀町が正式な町名になったのは、明治五年（一八七二）のことです。明治十一年（一八七八）、町はいったん下谷区（現在の台東区）に編入されます。その後、昭和十八年（一九四三）に、南半分が神田区に編入され、昭和二十二年（一九四七）、千代田区ができたときに神田練塀町（かんだねりべいちょう）になりました。<br />

　さて、明治二十三年（一八九〇）、町内に国鉄の秋葉原（あきはばら）貨物駅ができ、おもに東北地方からの物資の受け入れ口になりました。大正十二年（一九二三）の関東大震災後に、町の西部に神田青果市場が移ってくると、練塀町は東京の物流拠点のひとつになりました。平成十七年（二〇〇五）には常磐（じょうばん）新線が完成し、電機の町はさらに大きな変貌（へんぼう）を遂（と）げました。</blockquote>

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		<title>神田旅籠町（かんだはたごちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 03:36:59 +0000</pubDate>
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　この周辺は、かつて神田旅籠町（かんだはたごちょう）と呼ばれていました。

　昌平橋（しょうへいばし）の北側にあたるこの地は、中山道（なかせんどう）の第一の宿場である板橋宿（いたばししゅく）、]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.698405,139.768885&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.698405,139.768885&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.698405,139.768885&amp;cbp=1,339.09,,0,-0.52&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都千代田区外神田１丁目１">東京都千代田区外神田１丁目１</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.698405,139.768885&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.698405,139.768885&amp;t=h&amp;z=16&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都千代田区外神田１丁目１"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.698405,139.768885,red&amp;zoom=16&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都千代田区外神田１丁目１" title="東京都千代田区外神田１丁目１" /></a>

<blockquote>　この周辺は、かつて神田旅籠町（かんだはたごちょう）と呼ばれていました。<br />

　昌平橋（しょうへいばし）の北側にあたるこの地は、中山道（なかせんどう）の第一の宿場である板橋宿（いたばししゅく）、日光御成街道（にっこうおなりかいどう）の宿場町である川口宿（かわぐちしゅく）への街道筋として、旅籠（はたご）が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。<br />
　江戸幕府は、五街道（ごかいどう）のなかでも、遠く京都に通じる東海道（とうかいどう）と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝（にっこうさんぱい）の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。<br />

　しかし、天和（てんな）二年（1682）に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃（じょうるり）や歌舞伎（かぶき）でも有名な「八百屋（やおや）お七（しち）」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸（かがかなざわはんてい）跡地に替地（かえち）を与えられました。そして元禄（げんろく）七年（1694）には、浅草御門の普請（ふしん）のため、馬喰町（ばくろちょう）・柳原（やないはら）周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年（1869）には、昌平橋と筋違橋（すじかいばし）の北側にあった幕府講武所付町屋敷（ばくふこうぶしょづきまちやしき）が神田旅籠町三丁目と改称されました。<br />

　さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳（しょどんやなまえちょう）』によれば、嘉永（かえい）（1848～1854）のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。</blockquote>

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		<title>神田明神下御台所町（かんだみょうじんしたおだいどころまち）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 03:31:11 +0000</pubDate>
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　神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍（こうりゅう）寺や万隆（ばんりゅう）寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦（めいれき）三年（1657）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.700349,139.768642&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.700349,139.768642&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.700349,139.768642&amp;cbp=1,37.94,,0,-6.64&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都千代田区外神田２丁目５">東京都千代田区外神田２丁目５</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.700349,139.768642&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.700349,139.768642&amp;t=h&amp;z=17&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都千代田区外神田２丁目５"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.700349,139.768642,red&amp;zoom=17&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都千代田区外神田２丁目５" title="東京都千代田区外神田２丁目５" /></a>

<blockquote>　神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍（こうりゅう）寺や万隆（ばんりゅう）寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦（めいれき）三年（1657）一月十八日に発生した「明暦（めいれき）の大火（たいか）」（振袖火事）です。<br />

　「明暦の大火」は、およそ二日間にわたって江戸のまち全体の六割ほどを焼き尽くし、十万人余りの命を奪った大災害です。このとき、江戸城も天守閣（てんしゅかく）をはじめ、多くの建物を焼失しました。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があったのです。かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御台所御賄方（おだいどころおまかないかた）の武家屋敷として再建されたのでした。御台所町（おだいどころまち）という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。<br />

　さらに寛文（かんぶん）十二年（1672）、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に「町屋（まちや）」（商人と職人の住まい）も形成されました。以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。文政（ぶんせい）七年（1824）の『江戸買物独案内（えどかいものひとりあんない）』には、町内に足袋屋（たびや）や呉服屋（ごふくや）、小間物屋（こまものや）があったことが記されています。時代が下って明治二年（1869）には、神田明神下御賄手代屋敷（かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき）を合併し、神田御台所町（かんだおだいどころまち）と呼ばれるようになりました。</blockquote>

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		<title>神田紺屋町北部（かんだこんやちょう）</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2009 01:33:06 +0000</pubDate>
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　慶長（けいちょう）年間（1596～1615）に誕生したこの町には、藍染（あいぞ）めを手がける染物屋（そめものや）が軒（のき）を連ねていました。「紺屋町（こんやちょう）」という町名は、そのために生まれたとされてい]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.692805,139.774262&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.692805,139.774262&amp;t=h&amp;z=15&amp;layer=c&amp;cbll=35.692805,139.774262&amp;cbp=1,57.2,,0,-1.01&amp;maptype=STREETVIEW" title="東京都千代田区神田紺屋町４１">東京都千代田区神田紺屋町４１</a>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=35.692805,139.774262&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.692805,139.774262&amp;t=h&amp;z=18&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="東京都千代田区神田紺屋町４１"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=35.692805,139.774262,red&amp;zoom=18&amp;size=500x200&amp;key=ABQIAAAAqDcMF_hGiphWD1WpaDzopRQ1dYwop2GRt6_gNvUQ3opCEnoDPxQYPym1EAF_DQeWeAA0AmsCibyzjw&amp;hl=ja" alt="東京都千代田区神田紺屋町４１" title="東京都千代田区神田紺屋町４１" /></a>

<blockquote>　慶長（けいちょう）年間（1596～1615）に誕生したこの町には、藍染（あいぞ）めを手がける染物屋（そめものや）が軒（のき）を連ねていました。「紺屋町（こんやちょう）」という町名は、そのために生まれたとされています。<br />

　明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた『風俗画報（ふうぞくがほう）』は、この界隈（かいわい）の景観について、次のように記述しています。<br />

　「……其（そ）の晒（さ）らせし布は概（おおむ）ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻（ひるが）へりて、旗の如く又幟（のぼり）の如く、頗（すこ）ぶる美観なり」<br />

　藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩（いろど）っていたというわけです。また、『狂歌江都名所図会（きょうかえどめいしょずえ）』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄（みずあさぎ）なり」と、川の水まで浅黄色（藍色を薄めた色）をしていると詠（よ）まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭（てぬぐ）いや浴衣（ゆかた）の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。<br />

　「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。<br />

　ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町（南）町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町（かんだきたのりものちょう）が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保（きょうほう）四年（1719）のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。</blockquote>

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