日本橋人形町(にほんばしにんぎょうちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 4:45 PM
東京都中央区日本橋人形町
歌舞伎の大芝居が華やかだった頃、同時にもっと安く簡単に楽しめる人形の芝居小屋がたくさん登場したそうです。その人形を作り、直し、操る人々がこの町に多く暮らしていたと言われています。
一日がかりの贅沢な娯楽、歌舞伎を見に行けない忙しい町人さんたちが 「ちょいといってくらぁ」 と人形芝居を気軽に見に行って息抜きしてたのでしょうか。歌舞伎の役者さんとは違って姿の見えない人形繰りさんですが、少ない娯楽の担い手としてやはり人気があったでしょうね。
 そんな華やかな気質の人々がいたせいでしょうか、人形芝居の流行の後、明治には柳町、新橋と並ぶ一流の花街として全国にその名を知られるようになります。その芳町芸者の代表が、あの有名な貞奴。古い話ですが、昔の大河ドラマで松坂恵子さんが演じられていたのをよく覚えています。
 老舗とよばれる料理店も数多くあり、いまだそこかしこに粋が息づく町です。
 江戸時代の当町一帯は、北部が町人の住む町、南部の蛎殻町一帯は大名屋敷の並ぶ 武家地でした。人形町の名は江戸時代の里俗地名で、大伝馬町2丁目と通旅籠町の間 を南北に横切る通りに、古くからこの名称がありました。元禄江戸図には「さかい町 」と和泉町の間の通りに「人形町」と見えています。むかし、堺町、葺屋町に結城座 、薩摩座などの人形芝居があったころ、長谷川町の辺りに人形を造る家が多く、ある いは、手遊物・錦絵などを商う店が多く、賑わった所でした。
 正月には手鞠羽子板、3月には雛人形、5月には菖蒲人形の市がたちました。人形 町の名はこうしたところから生まれたものと思われます。
 旧人形町1丁目は、それ以前の蛎殻町2丁目及び松島町の西大部の地でした。蛎殻 町の地域は、江戸時代初期は、隅田川河口近くの西岸の埋立地で、稲荷堀より以東の 里俗地名でした。寛政12年(1800)に新両替町から幕府の貨幣鋳造役所である 銀座が移転してきて、幕末まで銀貨や銅銭の鋳造を行った「蛎殻銀座] のあった所です。その他の地はほとんどが大名・旗本屋敷の武家地で、幕末には上総 国請西藩水野家、陸奥国磐城平藩安藤家、播磨国姫路藩酒井家の藩邸がありました。 明治初年には民間地として払い下げられ、次第に町場となったのです。
 松島町は武家地に囲まれた町人の住む町で、江戸中期には町奉行の組屋敷が一時置 かれた所です。松島神社があったので、町名になったといわれています。
 日本橋人形町2丁目は、1丁目の北側にあたり、昭和8年2月、元大坂町の東一部 、蛎殻町2丁目の一部、住吉町の南大部分を合せて成立しました。町の東側には、かつ て久松橋の傍から入った入堀があり、この掘に面した所を住吉町裏河岸といいました 。ここには、江戸時代、かまどを作って売る者が多かったので、「へっつい河岸」と 呼ばれていました。
 高砂町・新和泉町・難波町・住吉町の辺りは吉原遊郭の地で、明暦の大火後に浅草 に遊廓が移転したので、謡曲にちなんで高砂町や住吉町と命名されたと伝えています 。
 元大坂町は東堀留川の東側に沿った町で、天正年間(1573~1592)の頃に 、大坂の廻船がこの辺りまで入津して、大坂町となってと伝えています(『東京府志 科』)。また、大坂の人が開いたためともいわれています。その後、新大坂町が成立 したので、当地は元大坂町と改称したとされています。明治初年まで当地に沿って蛎 殻町に入る土井堀がありました。なお、人形町2丁目の一部の地には、幕末頃に美濃 国加納藩永井家の藩邸があり、一部が武家地であったことがわかります。
 日本橋人形町3丁目は、旧人形町3丁目と芳町2丁目の地で昭和55年に成立し ました。旧人形町3丁目は江戸時代以来の新和泉町の全域及び住吉町・堺町・芳町の 各一部からなっていました。  新和泉町は、もと吉原の西南隈に当る地で、吉原の移転後に開かれた町です。堺町 に近いので、和泉国堺(大阪府)の国名をとって和泉町とつけたのであろうと想像 されます。
 町の北側が大門通りで、西側には金物商が軒を連ね、“鐘一つ売れぬ日はなし江戸 の春”の繁昌をうたわれた地でした。銅匠の銅屋寅次郎もここに住んでいました。地 内1番地には、江戸時代初期の元和年間(1615~24)に幕府の奥医師岡本玄 冶が、1,500坪に及ぶ広大な拝領屋敷をもらって住んでいました。人々は玄冶店と呼 び、歌舞伎の世界で知られています。
 芳町の一帯には1万坪に及ぶ広大な薩摩国鹿児島藩主島津家の藩邸がありました。
 堺町は、『東京府志科』によれば「慶長年中(1596~1615)の開創なり、 此辺等大坂の廻船入津せしに由て、大坂近傍の名勝住吉・堺などの名を用ふ」とし て、堺町となったと記しています。寛永年間(1624~44)に中村座が開業して からは浄瑠璃・説経・操り人形など、様々な見世物小屋や茶屋が軒を並べ、一大歓 楽街になりました。
 堺町に隣接する葺屋町は、東堀ッ川に面した沼沢地であったのを、慶長、元和年間 (1600~24)に埋立てて町場とした所といわれますが定かではありません。町 名の由来は屋根葺職人が多くいたためと伝えています。

日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 4:39 PM
東京都中央区日本橋大伝馬町
 大伝馬町という町名の成立は古く、江戸開府のころには、現在の千代田区にある皇居の呉服橋の辺りにありました、伝馬とは馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度をいいます。その役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となったのです。
 慶長11年(1606)に隅田川河口の浜町一帯の海兵の埋立てが完了した後に、現在地に大伝馬町は移転しました。当時は西から東へ大伝馬町1~2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていました。伝馬役を務める馬込勘解由も旧大伝馬町2丁目の北側に屋敷地を拝領し、伝馬役と町名主を世襲で務めました。
 馬込氏は三河(愛知県)の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。
 旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。
 馬込氏は三河(愛知県)の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。
 旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。

日本橋小伝馬町(にほんばしこでんまちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 4:15 PM
東京都中央区日本橋小伝馬町
 江戸時代の当町域は、神田堀(神田八丁堀)に面した町人町で、小伝馬町1~3丁目・小伝馬上町・亀井町・元岩井町埋立地・柳原岩井町上納地の全域及び通旅籠町・大伝馬町2丁目の各一部から成りたっていました。
 この地は徳川家康が江戸に入部する以前は、千代田村といわれ、奥州街道が通っていました。六本木という宿駅があったといいます。
 はじめ小伝馬町は大伝馬町と共に伝馬町といわれ、慶長11年(1606)に江戸城内にあった伝馬役を務める人々がいた町であったのを当地に移転した町でし。旧小伝馬町は1~3丁目に分かれ、小伝馬町1丁目の北半分は、小伝馬町の牢獄の地域になっていました。1~3丁目の町名主は宮辺又四郎が代々世襲して勤めました。
 寺院があり、東光寺と地蔵院は明暦3年(1657)の大火の時、浅草(台東区)へ移転しています。京橋の金六町と同じく障子などの建具職人と長持つくりの職人等の多い町でした。商売としては、布地や家具や塗物を商う商人が多く、畳屋・附木屋・指物師がおり、職人の町としても賑わっていました。1丁目には大仏師の元慶がおり、幕末には質屋1軒と資料に見えています。

日本橋本町(にほんばしほんちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 4:04 PM
東京都中央区日本橋本町
 本町1丁目は、昭和7年9月、伊勢町の一部、瀬戸物町の東一部、東小田原町の東半、安針町東大部、本船町の東大部、それに長浜町の通路を合併して出来た町です。安針町などは家康入国前からあった江戸のみさきに当るなどの説もあり、ウイリアム・アダムスが拝領した土地として知られています。勿論後には魚市場になりました。江戸が賑やかになってからは、鳥問屋が多くあったといわれています。本小田原町は本町1丁目と室町1丁目にまたがった町になりましたが、初期の建設時代には石置場だったので本小田原町の名がついたといいます。勿論魚市場内でした。本船町も同様、両町に別れ、魚河岸の魚問屋で賑わった所でした。昔は堀留町の一部もここにあり、堀留川が流れていて、伊勢町も一部をなし、物資、特に乾物穀類がここに荷揚げされたなどの話もあり、江戸商業の中心をなしていたことはいうまでもないようです。
 本町2丁目は昭和7年9月、伊勢町の北の大部と瀬戸物町の一部、大伝馬町1丁目の南一部堀留町1丁目、本町4丁目の南半、本町3丁目の南一部を合わせて出来た町ですので、まず大体は本町1丁目と似た江戸商業の中心地でした。
 今でも、山之内製薬、三共ヨード、大日本製薬、田辺製薬など、ビルの林立した町ですが、江戸以来の薬品問屋の町で、薬の仕入にはここに来なくてはならなかったほどの町でした。関東大震災までは各店々の金看板のずらりと軒なみ続いた姿は、日本橋の一名物といわれました。
 本町3丁目は昭和7年9月、本町3丁目の東一部と、4丁目の北半、大伝馬町1丁目の北大部、鉄砲町の南一部、本石町3丁目の南一部、同4丁目の南半、岩附町を合併して出来た町で、随分変化のあった町です。旧本町3丁目には江戸町方を総支配する町年寄の一人、喜多村の宅がありました。大伝馬町は朱印伝馬を勤める町として、何かにつけ江戸の町の筆頭として名主馬込勘解由と共に重要な地位を占めていました。この大伝馬町、1・2丁目とも木綿問屋が多く、南北両側とも、同業者のみで、木綿店とよばれ、伊勢商人の中心で、ただ一軒だけ伊勢屋源七という砂糖店があったのみという話です。
  この辺は宝田えびす神社の恵比須講に、べったら市がたち、路上で浅漬の大根を売る年中行事が、今もなお続いています。  宝田恵比須神社は「商売繁昌、開運の神」として信仰が厚く、本尊は運慶作などともいわれ、家康が寄進したなどとの伝説もあり、古くからの神社として、大伝馬町の発展と共に厚く商家の人々に信仰されて来た話もあります。毎年江戸の商家では10月20日に「恵比須講」といって、恵比須神を大黒と共に祀り、鯛などを供えて祀る風習があり、それ等の供物を売る市が立ったといいます。
 本町4丁目は3丁目の北の町で、昭和7年9月、本銀町3丁目東大部分と鉄砲町北半を合併して出来た町で、町北は龍閑川の河岸地であったが、今は埋めたてられてありません。昔は大伝馬町に属した地で、行徳から来る塩をこの河岸の入堀で陸あげして馬に積んだので岡附塩町などとよばれた時もあったといいます。鉄砲町は3丁目・4丁目に編入されてなくなりましたが、幕府の鉄砲師胝宗八郎の受領地として知られていました。旧本石町3丁目は、石町とよばれ、鐘撞新道にあった石町の鐘は時の鐘の第1号として有名で、辻源七が管理していました。今は十思公園内に保存されています。

日本橋室町(にほんばしむろまち)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:52 PM
東京都中央区日本橋室町
室町1丁目は、昭和7年9月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町1丁目・2丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町1丁目と改めました。
 2丁目は昭和7年9月、本町2丁目の南半、2丁目・3丁目の南の一部、室町3丁目、駿河町の北大部、本革屋町東大部、瀬戸物町の北一部、伊勢町の一部を合併して出来た町です。昔と比べて実にややこしい分け方で町が出来たのですが西側では三井越後屋が構えた町といった感じがします。
 延宝元年(1673)初代三井高利が本町2丁目に店を出し、天和3年(1683)店を駿河町に移して、「現銀掛値なし」の新商法によって今日の大をなすまで、室町と三井家とは、呉服屋、両替店の経営から、明治以後の室町一帯は三井系列の会社で占められているといってよいほどです。旧室町2丁目と3丁目の間、「駿河町より瀬戸物町へ通ずる道は、江戸第一の金銀通貨の往来する道路なり」といって三谷とか中井とか、三井、竹原など、著名な富商の名をあげています。また、定飛問屋の存在についても、「此等の営業日に日々金銀の出入りするには、此横町を通らざるものなし、千両箱を車に積み或は棒に担ひ、手代附添で運搬す。其頃毎日10万両程は往来せり。今は10万円は風呂敷に包み持運べるが、十10万両の金量は容易ならず。中等の人は千両の金も並べて見る事さえ難き世の中、斯の如き通貨の頻繁に往来するは、江戸広しとも雖も、他の町にあらざる所なり」と風俗画報の397号に天保老人文の舎という人が「見聞記憶の侭」と題して述べています。日本橋室町という一帯、商業金融界にとっていかに大きな地位を占めていたかが、うかがえます。
 もちろん商業地として目ぬきの所です。金融業ばかりでなく、室町2丁目西側には瀬戸物町にあった「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋であり、日本橋川沿いには魚問屋も並んでいたので、この左右両町の地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。旧本町1丁目は本石町に変り、旧本町2丁目が、室町2・3丁目に変りましたが。本町2丁目には江戸総町を支配する樽藤左衛門の屋敷があり、それだけでも、重きをなした町でした。  室町3丁目も昭和7年9月の改正で、本町2丁目の北半と3丁目の西一部、十軒店町、金吹町の東半、本石町2丁目の南半、同3丁目の西一部を合併して出来た町で、室町2丁目と同様、三井系列の大会社の建物が占めているような町といってよいほどです。 旧本石町2丁目には幕府菓子の御用達金沢丹後の店があって有名でした。江戸の菓子舗として大久保主水と並び称せられた店でした。  次に十軒店ですが、古くから、ここには雛人形を売る店があり、3月の雛の節句と5月の端午の節句の2回、2月下旬から3月3日まで、4月下旬から5月5日まで人形の市が立ち、大群集の雑踏で大いに賑わったことで有名です。
 室町4丁目は、昭和7年9月の大改正で、本銀町2丁目、3丁目の西一部本石町2丁目の北半、3丁目の西一部を合併して出来た町です。今は埋立てられてしまいましたが龍閑川に接した北部からこちらは、いずれも有数の商店街でした。中でも本石町2丁目にあった近江屋五郎兵衛は、土地を各地に16ヶ所も持ち、大地主として知られ、呉服問屋としては店員などを31人も置く大店として有名でした。
  昔の本石町3丁目の角には有名なオランダ宿「長崎屋」があって、海外文化を江戸市民にもたらす唯一の窓の役割を果たす所として知られ、長崎から和蘭の商館長一行が江戸参府をする際の宿泊所でした。
  この室町4丁目は、問屋街として知られた町ですが、蝋燭の著名な問屋がいくつかあったほか、神田今川橋よりは瀬戸物問屋がまとまってあるなど、いろいろな問屋の町でもあったようです。

日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:10 PM
東京都中央区日本橋本石町
 本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本石町2丁目と3丁目の間の通りには「本町通り」の称があって「将軍御成り」といった時の通過路であり、しきたりのやかましい場所でした。また、1丁目、2丁目は特に呉服商業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。
 格式の高かったことは有名で、江戸の豪商の集まる場所でもあったのです。町名の由来も、江戸初期に諸国の米問屋が多く集まった町である所から本石町と名づけられたと伝えられています。江戸末期には、地廻り米問屋として小原屋清兵衛、中村屋治助、若狭屋和吉、玉屋新兵衛の名が『諸問屋名前帳』にあります。ほかに大問屋も多く、春米屋4軒。薪炭問屋2軒、炭薪仲買5軒、板木屋2軒、両替屋2軒などがあったようです。
 江戸の商業は関西、特に伊勢や近江の商人に負う所の大きいことは云う迄もありません。そこに諸問屋活躍の舞台が広がっていきました。日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋という大きな商業界を左右する店々が並んでいて、一般の商店とは別に多くの店員をかかえて、活躍していました。10人20人などと一口にいいますが、主人はそうした店員と一緒の生活です。しかも3食、おかず付きで食べさせます。そのための人員も必要です。どんなに問屋の主人や商店の主人たちが、経営上大変だったかがわかりましょう。番頭という店の事務をやる頭分の人に仕事を任せる面があったにしても、大変でした。
 その上、商売上の事ばかりでなく、町としてのいろいろな「つきあい」というものがあり、宴会なども必要でした。「問屋の主人は苦労人」という言葉、苦労しなくては店が発展しないのです。その諸問屋の集中する日本橋一帯、本町、馬喰町、大伝馬町、小伝馬町などと共に、本石町も大きな力を占める諸問屋の店々のあった所で、江戸商家の基礎を築いたといわれているほどの賑わいでした。諸問屋が並び、江戸商業の中心を占めるといっても過言でなく、家屋も明暦の大火で復興してからは、たいてい塗屋土蔵造りで、白壁のつらなる町の偉容を示していたといわれていました。昭和7年9月布告の町名変更、区画整理で、大きく町の範囲が変化し、混乱しました。それでも現在でも本石町1~4丁目は、室町1丁目から4丁目、本町1丁目から4丁目と同様、東京の明治・大正時代に至っても、江戸商業の中心地を引きついで大商業圏の一部を形成しているといえます。
 本石町には今では全く忘れられているものに龍閑川の大きな土堤があります。
 龍閑川は本石町4丁目の所を流れていたのですが、火除のため石を使って土手を築いて、高さ2丈4尺、長さ8町に及ぶ防火地帯としたのは、万治元年(1658)の事といわれています。『江戸名所図会』にも「明暦年間、火災を除かしめんか為に是を築しむ、今は同町本銀町2丁目・3丁目の辺、わずかに其形を残せり。延宝8年の江戸絵図に銀町1丁目より大門通りの所迄、石垣の土手をしるして松の並木を画けり」とあります。安政4年(1857)になって、これをこわして町屋にしましたが火除地の名は幕末まで残っていたといいます。龍閑川は埋め立てられてしまいましたが、場所によっては、まだつづいて少し土の盛り上がっている所があって、わかるなどと云う人もあります。

練塀町(ねりべいちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:45 PM
東京都千代田区神田練塀町3
 練塀(ねりべい)とは、瓦(かわら)と練土(ねりつち)を交互に積みあげ、上を瓦で葺(ふ)いた土塀(どべい)のことです。瓦と土の織(お)りなす縞模様(しまもよう)が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。
 江戸時代のこの界隈(かいわい)は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷(したや)まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い資料を見てみると、「町の南隅(みなみすみ)の河野某(なにがし)の屋敷の練塀が立派だった」とあります。
 また、ここには歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』や講談『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』で有名な御数寄屋坊主(おすきやぼうず)、河内山宗春(こうちやまそうしゅん)も住んでいたといわれています。
 練塀町が正式な町名になったのは、明治五年(一八七二)のことです。明治十一年(一八七八)、町はいったん下谷区(現在の台東区)に編入されます。その後、昭和十八年(一九四三)に、南半分が神田区に編入され、昭和二十二年(一九四七)、千代田区ができたときに神田練塀町(かんだねりべいちょう)になりました。
 さて、明治二十三年(一八九〇)、町内に国鉄の秋葉原(あきはばら)貨物駅ができ、おもに東北地方からの物資の受け入れ口になりました。大正十二年(一九二三)の関東大震災後に、町の西部に神田青果市場が移ってくると、練塀町は東京の物流拠点のひとつになりました。平成十七年(二〇〇五)には常磐(じょうばん)新線が完成し、電機の町はさらに大きな変貌(へんぼう)を遂(と)げました。

神田旅籠町(かんだはたごちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:36 PM
東京都千代田区外神田1丁目1
 この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
 昌平橋(しょうへいばし)の北側にあたるこの地は、中山道(なかせんどう)の第一の宿場である板橋宿(いたばししゅく)、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)の宿場町である川口宿(かわぐちしゅく)への街道筋として、旅籠(はたご)が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道(ごかいどう)のなかでも、遠く京都に通じる東海道(とうかいどう)と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝(にっこうさんぱい)の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和(てんな)二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)でも有名な「八百屋(やおや)お七(しち)」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸(かがかなざわはんてい)跡地に替地(かえち)を与えられました。そして元禄(げんろく)七年(1694)には、浅草御門の普請(ふしん)のため、馬喰町(ばくろちょう)・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋(すじかいばし)の北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)』によれば、嘉永(かえい)(1848~1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:31 PM
東京都千代田区外神田2丁目5
 神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍(こうりゅう)寺や万隆(ばんりゅう)寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦(めいれき)三年(1657)一月十八日に発生した「明暦(めいれき)の大火(たいか)」(振袖火事)です。
 「明暦の大火」は、およそ二日間にわたって江戸のまち全体の六割ほどを焼き尽くし、十万人余りの命を奪った大災害です。このとき、江戸城も天守閣(てんしゅかく)をはじめ、多くの建物を焼失しました。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があったのです。かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御台所御賄方(おだいどころおまかないかた)の武家屋敷として再建されたのでした。御台所町(おだいどころまち)という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。
 さらに寛文(かんぶん)十二年(1672)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に「町屋(まちや)」(商人と職人の住まい)も形成されました。以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、町内に足袋屋(たびや)や呉服屋(ごふくや)、小間物屋(こまものや)があったことが記されています。時代が下って明治二年(1869)には、神田明神下御賄手代屋敷(かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき)を合併し、神田御台所町(かんだおだいどころまち)と呼ばれるようになりました。

神田紺屋町北部(かんだこんやちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 10:33 AM
東京都千代田区神田紺屋町41
 慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に誕生したこの町には、藍染(あいぞ)めを手がける染物屋(そめものや)が軒(のき)を連ねていました。「紺屋町(こんやちょう)」という町名は、そのために生まれたとされています。
 明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた『風俗画報(ふうぞくがほう)』は、この界隈(かいわい)の景観について、次のように記述しています。
 「……其(そ)の晒(さ)らせし布は概(おおむ)ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻(ひるが)へりて、旗の如く又幟(のぼり)の如く、頗(すこ)ぶる美観なり」
 藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩(いろど)っていたというわけです。また、『狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(みずあさぎ)なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色)をしていると詠(よ)まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭(てぬぐ)いや浴衣(ゆかた)の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
 「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
 ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町(かんだきたのりものちょう)が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保(きょうほう)四年(1719)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。

神田紺屋町南部(かんだこんやちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 10:17 AM
東京都千代田区神田紺屋町6
 この界隈(かいわい)は、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に徳川家康から軍功として関東一円の藍(あい)の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門(こんやがしらつちやごろうえもん)が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町(こんやちょう)」と呼ばれるようになったのです。
 江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手拭(てぬぐい)の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
 町内には古くから藍染川(あいぞめがわ)という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。『狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(あさぎ)なり」などの歌が詠(よ)まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
 万治(まんじ)年間(1658~1661)、あるいは天和(てんな)年間(1681~1684)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町(かんだみくらちょう)、神田東紺屋町(かんだひがしこんやちょう)、神田西福田町(かんだにしふくだちょう))に火除地(ひよけち)が設けられました。明暦(めいれき)三年(1657)の「明暦の大火(振袖(ふりそで)火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には掘割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀(はっちょうぼり)」と呼ばれるようになったそうです。

岩本町三丁目(いわもとちょうさんちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 10:10 AM
東京都千代田区岩本町3丁目11
 江戸時代、この界隈(かいわい)を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町(いわもとちょう)周辺は、江戸城から見れば鬼門(きもん)(北東方向)にあたります。柳森(やなぎもり)神社(現・神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)の社伝によれば、太田道灌(おおたどうかん)が鬼門除(よ)けに稲荷(いなり)を祀(まつ)り、柳を植えたのが始まりといわれています。  そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本(はたもと)などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。  その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒(のき)を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋(いずみばし)ダンスホール」が併設されました。  このように洒落(しゃれ)て小粋(こいき)な雰囲気を醸(かも)していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。  現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎(いしずえ)を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。

岩本町一丁目(いわもとちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 9:39 AM
東京都千代田区岩本町1丁目7
岩本町一丁目(いわもとちょういっちょうめ)は、かつて東福田町(ひがしふくだちょう)、材木町(ざいもくちょう)、東今川町(ひがしいまがわちょう)、亀井町(かめいちょう)の四つの町に分かれていました。
 古地図にある川筋は、明暦(めいれき)の大火(たいか)の翌年、万治(まんじ)元年(1658)に造られたものです。このうち竜閑橋(りゅうかんばし)より甚兵衛橋(じんべいばし)の先、堀が南へ曲がるところまでの土手を「八丁堤(はっちょうつつみ)」、掘割は「神田八丁堀(かんだはっちょうぼり)」と呼ばれ、下町の防災の拠点になっていました。
 この掘割は、以後何度か埋め立てや開削が繰り返されましたが、明治十六年(1883)、新たに堀を開き、「竜閑川(りゅうかんがわ)」と呼ばれるようになりました。
 明治元年(1868)、それまで細分されていた町が、「東福田町」「材木町」「東今川町」の三町に区割りされ、昭和の初期に日本橋区より「亀井町」の一部が編入されて四町となり、現在の町の形が整いました。亀井町はその後、昭和二十二年(1947)に材木町に編入されました。
各町名の由来を調べてみると、
東福田町
むかし、この近在を「福田村(ふくだむら)」と称し、当地はその東方に位置していた。安政(あんせい)四年(1857)に土手を崩して堀を埋め、その跡地を開いて町とした。
材木町
川筋に面して船で運ばれた材木などを荷揚げする場所があり、多くの材木店が軒(のき)を連ねていた。
東今川町
川に架(か)かる橋の一つ「今川橋(いまがわばし)」の東にある町であった。橋の名は、天和(てんな)の頃(1681~1684)の名主(なぬし)「今川善右衛門(いまがわぜんえもん)」に由来するといわれる。
亀井町
寺社地(じしゃち)であったところが、町屋(まちや)に変わるとき、それを祝して名づけられた。町名はこの町を開いた亀井某の名によるともいわれている。 などが伝えられています。
  これらの町は昭和四十年(1965)七月一日の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。「竜閑川」は終戦後に三度(みたび)埋められて現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央区の区境となっています。

淡路町二丁目(あわじちょうにちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:16 AM
東京都千代田区神田淡路町2丁目15
 江戸時代、この界隈(かいわい)は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。古い絵図を見ていくと、永井信濃守(ながいしなののかみ)の屋敷が松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)の屋敷となり、のちに若狭小浜(わかさおばま)藩酒井家の上屋敷(かみやしき)(藩主の邸宅)となっています。
 明治五年(1872)、ここに神田淡路町二丁目(かんだあわじちょうにちょうめ)という名前が正式に付けられました。町名の由来とされる淡路坂(あわじざか)は、鈴木淡路守(すずきあわじのかみ)の屋敷があったことにちなんでいます。
 明治のはじめ、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人が輩出した共立(きょうりつ)学校(のちの開成(かいせい)学園)が創設されます。正岡子規(まさおかしき)や南方熊楠(みなかたくまぐす)などもここで学んでいます。また町内には一時期、『たけくらべ』『にごりえ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口一葉(ひぐちいちよう)も住んでいました。
 淡路町は文化の町となり、その進取の気風は町並みにも表れていました。大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋(しょうへいばし)近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑(にぎ)わっていました。
 武士の町から文化の町へと大きな変貌をとげた淡路町二丁目は、二十一世紀という新しい時代に、未来に向けての町づくりに地域をあげて取り組んでいます。

淡路町一丁目(あわじちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:11 AM
東京都千代田区神田淡路町1丁目1
[googlemap lat="35.695523" lng="139.767959" width="500px" height="200px" zoom="17" type="G_NORMAL_MAP"]東京都千代田区神田淡路町1丁目1[/googlemap]
江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。
 『寛永江戸図(かんえいえどず)』によると、観音坂(かんのんざか)を下りきったあたりに「西福寺(さいふくじ)」「西念寺(さいねんじ)」が記されています。西福寺は慶長(けいちょう)三年(1598)、徳川家康が故郷の三河(みかわ)から呼び寄せた寺です。一説には、永禄(えいろく)三年(1560)の桶狭間(おけはざま)の戦いの際、織田軍に包囲された家康を救ったのが同寺の了伝和尚(りょうでんおしょう)で、家康はこの恩にむくいるため、新たな寺を寄進したともいわれています。
 寛永年間(1624~1644)にこの二つの寺が移転したあと、ここは内藤伊賀守(いがのかみ)の屋敷となりました。そして貞享(じょうきょう)四年(1687)以降は豊後府内(ぶんごふない)藩主である大給(おぎゅう)松平家の上屋敷(かみやしき)となり、幕末を迎えました。
 明治五年(1872)、この界隈(かいわい)は、神田淡路町一丁目(かんだあわじちょういっちょうめ)と正式に名付けられました。この名前は、鈴木淡路守(あわじのかみ)の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂(あわじざか)」(現・神田淡路町二丁目(かんだあわじちょうにちょうめ))に由来しています。
 明治五年当時は、町内のほとんどが華族(かぞく)である大給近道(おぎゅうちかみち)の屋敷地だったと『東京府志料』(とうきょうふしりょう)』に記されています。

三崎町一丁目(みさきちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:46 AM
東京都千代田区三崎町1丁目4
 三崎町(みさきちょう)という町名が誕生したのは明治五年(1872)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村(みさきむら)」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。
 JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷(みさきいなり)神社が鎮座しています。創建は詳(つまび)らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久(けんきゅう)年間(1190~1199)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光(いえみつ)が自(みずか)ら三崎稲荷を崇敬(すうけい)するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。
 閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑(にぎ)やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目(みさきちょうにちょうめ)には三崎三座(みさきさんざ)と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる街でした。
 関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目(みさきちょういっちょうめ)は昭和九年(1934)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。そして、昭和四十二年(1967)の住居表示の実施にともない、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域がふたたび三崎町一丁目と定められ、現在に至っています。

神田佐久間町二丁目

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:39 AM
東京都千代田区神田平河町1
 この界隈(かいわい)は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。「佐久間(さくま)」の町名は、佐久間平八(さくまへいはち)という材木商が住んでいたことから生まれたと伝わっています。江戸時代初期の慶長(けいちょう)年間(1596~1615)、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。古くから幕府に仕えた町ということで、将軍家に祝い事があるときは町人たちにも能の見学が許されていたといいます。
 古い資料を見てみると、この界隈から火事が頻発していた記事が数多く残されています。文政(ぶんせい)十二年(1829)には、神田だけでなく両国橋(りょうごくばし)から築地(つきじ)、佃島(つくだじま)、本銀町(ほんしろがねちょう)あたりまでを焼き尽くした大火の火元となりました。また、天保(てんぽう)五年(1834)にも、江戸市中を焼いた火事が佐久間町から発生しています。
 江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治二年(1869)にその間の武家地を編入しました。明治四十四年(1911)、いったん神田を取って佐久間町二丁目と改称しましたが、昭和二十二年(1947)には、その名を昔ながらの神田佐久間町二丁目に戻し、現在に至っています。
 一方、神田平河町(かんだひらかわちょう)も、防災と深いかかわりをもった町です。享保(きょうほう)十二年(1727)、防火のための火除地(ひよけち)が麹町平河町一丁目(こうじまちひらかわちょういっちょうめ)に設けられました。そこに住んでいた人々のための代地(だいち)が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目(こうじまちひらかわちょういっちょうめ)代地と呼ばれたのです。その後、明治二年に神田平河町(かんだひらかわちょう)、明治四十四年には平河町と名を変えましたが、昭和二十二年になると、ふたたび神田平河町と改名しました。

萬世橋(まんせいばし)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:32 AM
東京都千代田区外神田1丁目17
 この一帯は、橋の名にちなんで「萬世橋(まんせいばし)(万世橋)」と呼ばれています。萬世橋の名前は、明治六年(1873)、昌平橋(しょうへいばし)よりもやや下流に架けられた「萬代橋(よろずよばし)」に由来します。いつのころからか人々はこの橋を「まんせいばし」と呼ぶようになり、明治三十六年(1903)にほぼ現在の場所に架け替えられました。
 江戸時代、この界隈(かいわい)は、下谷御成道(したやおなりみち)へ出る道筋にあり、人の行き交う町でした。またここは神田川河岸で、年貢米や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。江戸時代の地図にある「神田通船屋敷(かんだつうせんやしき)」は、幕府が手がけた見沼代用水(みぬまだいようすい)の難工事に協力したことで、将軍より用水路の通船を許可された高田家の屋敷でした。
 当時武家地だった神田仲町(かんだなかちょう)と神田花房町(かんだはなぶさちょう)は、享保(きょうほう)年間(1716~1736)に町屋となり、商人や職人が移り住みます。また、神田花田町(かんだはなだちょう)は、明治二年(1869)、武家地だった花房町代地(はなぶさちょうだいち)と須田町代地(すだちょうだいち)をあわせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。地元の萬世橋町会は、戦後その三つの町にまたがって成立しました。昭和三十九年(1964)、住居表示の実施により、これら三つの町は外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)に変わりました。
 萬世橋地区のなかでも、秋葉原(あきはばら)のあたりには、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う卸問屋(おろしどんや)や小売店がありました。しかし、戦時下の空襲により、この一帯は焼け野原となってしまいます。そんな秋葉原駅のガード下に、昭和二十四年(1949)、連合軍の命令で、須田町や小川町界隈にあった電気関係の露天商が移動させられたのです。こうして秋葉原は、世界的に有名な電気街として発展することになりました。
 駅名にもなっている「秋葉原」の名前は、明治二年の大火の後、広大な火除地(ひよけち)ができ、そこに鎮火神社(ちんかじんじゃ)が祀(まつ)られました。静岡の秋葉(あきば)神社が、火伏(ひぶ)せの神社だったことから、「あきばのはら」または「あきばっぱら」と呼ばれるようになったといいます。神社の社(やしろ)は、台東区下谷(したや)に移された後、現在はJR秋葉原駅の駅長室にその分社が祀られています。

東松下町(ひがしまつしたちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:27 AM
東京都千代田区神田東松下町17
 江戸時代のこの界隈(かいわい)は、商人や職人の家と、武家屋敷が混在する場所でした。このうち武家地には、「お玉(たま)が池(いけ)」という一風変わった通称の一角があったことも知られています。
 文政(ぶんせい)八年(1825)、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖(かいそ)千葉周作(ちばしゅうさく)の剣術道場「玄武館(げんぶかん)」が、日本橋(にほんばし)品川町(しながわちょう)からこの地に移ってきました。門人数千人という玄武館は江戸随一(ずいいち)の道場ともいわれ、坂本龍馬(さかもとりょうま)、清河八郎(きよかわはちろう)、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)なども同門の出身です。また、玄武館の隣には、儒者(じゅしゃ)東条一堂(とうじょういちどう)の「瑤池塾(ようちじゅく)」がありました。幕末のこの界隈は、新時代を切り拓(ひら)くために奔走(ほんそう)した若き志士たちが、飛躍へむけ文武を練った場所だったのです。
 明治二年(1869)、神田松下町一丁目代地(かんだまつしたちょういっちょうめだいち)、神田紺屋町(かんだこんやちょう)一丁目代地、神田三島町(かんだみしまちょう)、神田岸町(かんだきしちょう)、神田富山町二丁目(かんだとみやまちょうにちょうめ)の一部と武家地が合併し、東松下町(ひがしまつしたちょう)となりました。松下町(まつしたちょう)(現在の内神田(うちかんだ)一~三丁目の一部)と区別するために「東」を付けたといわれています。昭和二十二年(1947)、神田を冠して町名は神田東松下町(かんだひがしまつしたちょう)となり、現在に至っています。

神田佐久間町一丁目(かんださくまちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:10 AM
東京都千代田区神田佐久間町1丁目19
 「佐久間町(さくまちょう)」の町名は、かつて佐久間平八(さくまへいはち)という材木商が住んでいたことに由来するとされています。商人の名がそのまま町名になっていることからもわかるとおり、この界隈(かいわい)はとりわけ江戸商業の発達史にゆかりの深い場所でした。
 神田佐久間町一丁目(かんださくまちょういっちょうめ)の商人のなかで、とくに目立ったのは材木問屋でした。あまりに多くの材木問屋が集まっていたため、材木商たちの間では神田材木町(かんだざいもくちょう)という通称で呼ばれていたといいます。そのほか町内には、薪(たきぎ)や炭(すみ)を扱う業者も多かったようです。
 明治維新を迎え、江戸が東京と名を変えても、神田佐久間町一丁目には数多くの材木問屋や薪炭(しんたん)業者が商いを続けました。とくに幕末から明治にかけては活発な取引がおこなわれたようで、この町における炭の相場の変動が、東京全体の炭の価格に影響していたと伝えられています。
 江戸時代から続いてきた神田佐久間町一丁目の町名は、明治四十四年(1911)の町名変更によって佐久間町一丁目となりました。そして神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区となった昭和二十二年(1947)、ふたたび神田佐久間町一丁目という伝統ある名前を復活させ、いまに至っています。

神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 11:58 PM
東京都千代田区神田須田町2丁目9
  現在の神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)が生まれたのは、昭和八年(1933)のことです。大正十二年(1923)の関東大震災の後、東京の町は再編されました。その一環として元柳原町、柳町、小柳町、平永町などの町が合併され、いまの町の区域が定められたのです。
 関東大震災から二十二年後の昭和二十年(1945)、第二次大戦下の空襲によって東京はふたたび焼け野原となってしまいます。とくに三月十日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされました。そんな中にあって、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができました。
 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業(なりわい)とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。その賑(にぎ)わいも、空襲から命をかけて町を守った人々の努力があったからこそ生み出せたのです。町を愛する住民の気持ちは、戦後も変わりませんでした。
 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈(かいわい)には、神田神社・柳森(やなぎもり)神社・下谷(したや)神社の氏子(うじこ)が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、三社の祭礼を五月にまとめてとりおこない、住民が一丸(いちがん)となって伝統ある神田の祭りを盛り上げています。

神田須田町一丁目(かんだすだちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 11:39 PM
東京都千代田区神田須田町1丁目16
 江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦(めいれき)三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には「すた町」と記されています。
 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗(しにせ)の商店が数多く営業しています。
 さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒(のき)を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原(やないはら)土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市(ふるぎいち)の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
 つまりこの周辺は、江戸期以来の“商(あきな)いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。

鍛冶町二丁目(かじちょうにちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 7:20 PM
35.692149,139.771682
 今川橋交差点から中央通りをJR神田駅方面へ向かうとすぐに「謄写版発祥の地」という銅板が神田中央通りビルに壁にかかげてあります。謄写版とはいわゆる”ガリ版”で、明治二十七年に堀井新次郎父子が発明したものです。安くて手軽な印刷機として、ほんの十年前まで学校や役所などの必需品でした。描かれた銅板に刻まれた絵を見ると、明治中期のころはまだ店の前を鉄道馬車が通っていたことがわかります。
 中央通りをさらに北上すると、神田駅駅東口の横断歩道のところに「鍛冶町二丁目」の町名由来板が立っています。
 明治後期の地図によると、この辺りは上白壁町や下白壁町の町名が見え、左官職人が多く住んでいました。落語や講談の「大岡政談」でおなじみ、町奉行所の大岡越前守忠相がみごとな裁きぶりを発揮した「三方一両損」の話がありますが、登場人物のひとり、左官の金太郎もここに住んでいたことになっています。ただし「大岡政談」として伝えられる話はほとんどフィクションです。将軍吉宗の時代、享保の改革のもと、江戸市中の整備を推進したのが大岡越前守でした。消費者物価を安定させ、防火のために町火消しいろは四十八組を編成したのも彼だったのです。
その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈(かいわい)には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。
 鍛冶町(かじちょう)の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀(なぎなた)といった打物(うちもの)を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
 そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、下駄(げた)の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあったこともわかります。
 戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮(しんちゅう)・鉄販売店などが軒(のき)を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。
 昭和二十二年の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。

神田鍛冶町三丁目(かんだかじちょうさんちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:24 PM
神田鍛冶町三丁目
 JR神田駅北口の中央通り沿いに「神田鍛冶町三丁目」の町名由来板が立っています。
 神田駅周辺の猥雑で活気あふれる雰囲気は、江戸・明治と引き継がれてきたものにちがいありません。商店や職人の仕事場がびっしりと立ち並んだ様子が想像出来ます。
そんな町ですから、生活に必要な物はたいてい近所で手に入るという便利なところでした。アナウンサーの卵などが発声練習で使う早口言葉にこんなものがあって流行したこともあります。
 「神田鍛冶町の角の乾物屋の
 勝ち栗買ったが固くて噛めない
 返して帰ろう
 返しにいったら
 乾物屋の内儀が帰ってきて
 噛んだもの返せない
 癇癪起こしてかりかり噛んだら
 かりかり噛めた」
 勝ち栗は、「勝って勝ち栗 よろ昆布」というように、固いけれどめでたいものの代表でした。ちなみに角の乾物屋はいまもあるそうです。
 この界隈(かいわい)が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)をつとめていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋(なべ)や釜(かま)をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。
 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政(ぶんせい)七年(1824)の『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』によれば、紅(べに)や白粉(おしろい)などの化粧品、傘(かさ)、菓子(かし)、釘(くぎ)や打物(うちもの)などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
 明治のはじめ、隣接するいくつかの横町(よこまち)を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873)、一部が黒門町(くろもんちょう)に編入され、さらに昭和八年(1933)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和二十二年(1947)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を「神田鍛冶三会」と改め、今日にいたっているのです。

内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:53 PM
内神田一丁目
 日本橋川に沿った鎌倉河岸は物の往来がずいぶん活発な場所でした。そのにぎわいを物語るように、鎌倉河岸の一端である神田橋交差点に「物揚場跡」の重厚な石碑が横たわっています。いわく、
 日本橋川水運の物揚場標石 ここに出土す
 往時をしのぶよすがとして後世に伝える
 その石碑のとなりに「内神田一丁目」の町名由来板が立っています。
 ここには約九〇世帯の住民が住む区立内神田住宅があります。オフィスビルがひしめく大手町の目と鼻の先に、こんな住宅があるというのはすこし意外かもしれませんが、ツツジやハナミズキなど四季折々の草花で彩られています。
 その内神田住宅の前、日本橋川に架かるのが神田橋です。江戸期には神田橋御門がありましたが、江戸初期のころには橋の近くに土井大炊頭の屋敷があったところから、「大炊殿橋」と呼ばれていました。
 橋のたもとにある神田橋公園内には「太田圓三君像」があります。関東大震災の後、帝都復興院の土木局長として骨身を削って復興に尽くし、その苦労がもとで若くして亡くなった人物でした。
 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈(かいわい)には、荷揚(にあ)げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用しました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺(かんえいじ)や日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)への御成道(おなりみち)(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
 明治五年(1872)、いったん美土代町(みとしろちょう)となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966)、内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)に編入されました。
 昭和五十八年(1983)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004)、町会名は神田橋町会と変わりました。

神田鎌倉町(かんだかまくらちょう)・鎌倉河岸(かまくらがし)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:21 PM
神田鎌倉町・鎌倉河岸
 神田司町一丁目町名由来板から外堀通りを南に下って鎌倉橋交差点を東に入ると、千代田区の総合体育館があります。その前に「神田鎌倉町・鎌倉河岸」の町名由来板は立っています。
 鎌倉橋は関東大震災後に復興された橋で、昭和四年の架橋です。その鎌倉橋の北岸一帯は、江戸城を築くときに鎌倉からの石材を陸揚げした河岸だったので、「鎌倉河岸」と呼ばれるようになりました。相模国から切り出した石材を筏に載せて海から日比谷入江、そして平川を遡ってここまで運ばれてきたのです。
 また、江戸時代の鎌倉河岸には「豊島屋」という有名な酒屋があって、雛祭りに売る白酒がたいへん有名でした。あまりの客の多さに卒倒する人も出るので医者が待機していたほどの盛況ぶりだったといいます。
 町内には神田明神に移った浦安稲荷神社がありました。また、家康ゆかりの御宿稲荷神社があります。江戸はとかく稲荷神社の多い都市でした。武家の屋敷には稲荷神社が必ずあり、そこが町家に変わっても地域の人々がお稲荷さまを守り続けました。俚諺に「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」というのは、伊勢出身の商人とお稲荷さまと野良犬が多かったことをからかったものです。
 御宿稲荷のすぐそばにいまもある「稲荷湯」という銭湯は、皇居のまわりでジョギングをする人たちが愛用しています。その横にある内神田尾嶋公園は、ここに長く住んでいたご夫婦が区に寄付した土地で、平成九年に区立の公園としてオープンしました。
 天正(てんしょう)十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長(けいちょう)八年 (1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。
 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦(めいれき)三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
 江戸城築城に際して、家康が近江(おうみ)から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方(さくじかた)の大棟梁(だいとうりょう)として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺(ぞうじょうじ)、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。
 また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園(おじまこうえん)のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。
 昔、潮入(しおい)りの葦原(あしはら)だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤(あつ)い信仰を寄せていた「浦安稲荷(うらやすいなり)神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保(てんぽう)十四年(1843)に遷座(せんざ)され、現在は神田明神(かんだみょうじん)の境内にあります。
 「出世不動尊」は、一橋(ひとつばし)徳川家の表鬼門除(おもてきもんよ)けとして祀(まつ)られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。

神田司町一丁目(かんだつかさまちいっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 11:57 AM
神田司町一丁目
「神田司一丁目」の町名由来板は、佐竹稲荷神社から神田駅西口商店街を西へ行ったところ、外堀通りに出るすこし手前にあります。この商店街は歩行者天国で、買い物や散歩に快適な道になっています。
 ところで、千代田区町名にはすこし変わったところがあります。この町の北側に「神田司町二丁目」という住所がありますが、「神田司町一丁目」という住所はありません。同様に「神田多町二丁目」はありますが「神田多町一丁目」は存在しないのです。昭和四十一年の住所表示の実施で「内神田」となり、”一丁目”がなくなったのがその理由です。町名由来板には、こうしたなくなってしまった由緒ある町名を後世に伝えたいという思いが込められています。
 もう1つ、千代田区の町の名前で興味深いものがあります。現在区内にある町名で、「まち」と読むところは四つしかありません。「大手町」「麹町」「小川町」「司町」がそれで、ほかはすべて「ちょう」といいます。町の名前は代々受け継がれているものですから、こういった視点から町をみるのもおもしろいかもしれません。
 さて、現在の内神田一丁目の東半分は、昭和十年までは「三河町」と呼ばれていました。岡本綺堂の『半七捕物帳』の主人公・目明かしの半七親分はその三河町に住んでいた事になっています。そこを作者が訪ねて行ってさまざまな捕り物の話を聞き出すというのが物語の趣向でした。野村胡堂の『銭形平次捕物控』はこの『半七捕物帳』に刺激されて生まれました。
 綺堂も胡堂ももとは新聞記者でした。東京日日新聞(現・毎日新聞)の綺堂は貴社のかたわら戯曲を書き、劇作家として成功しましたが、一方の胡堂は報知新聞の社会部長、文芸部長まで務めあげました。旧御家人の息子で東京生まれの綺堂はともかく、平次や八五郎などの江戸弁をたくみに書いている胡堂が岩手県出身というのは、ちょっと驚きかもしれません。
 ここは「神田司町一丁目(かんだつかさまちいっちょうめ)」と呼ばれ、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。安政(あんせい)三年(1856)の地図を見ると、三河町(みかわちょう)や皆川町(みながわちょう)、蝋燭町(ろうそくちょう)といった町があります。
 このうち三河町は、天正(てんしょう)十八年(1590)の徳川家康入府のとき、一緒に来た三河(現・愛知県)の武士たちが住んだ場所で、慶長(けいちょう)年間(1596〜1615)にこの武士が下谷(したや)に移ったあとにできた町です。
 皆川町は、江戸初期に皆川山城守(みながわやましろのかみ)広照(ひろてる)の屋敷があったといわれます。のち寛永(かんえい)のころ(1624〜1644)から豊後府内(ぶんごふない)藩松平(まつだいら)家の屋敷に、貞享(じょうきょう)四年(1687)からは陸奥福島(むつふくしま)藩堀田(ほった)家の屋敷地になっています。ここが町屋になったのは、元禄(げんろく)十年(1697)ごろで、町名は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれています。
 蝋燭町は、慶長十七年(1612)に成立した古い町で、寛永のころ能楽師の幸若太夫(こうわかだゆう)の拝領地であったところが含まれてできました。町名はこのあたりに蝋燭づくりの職人が住んでいたことに由来しています。江戸中期以降には、武家屋敷がなく職人と商人の町として栄えてきました。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷・製本などの職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられたといわれています。また、商人も大店(おおだな)ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。
 明治に入ると、東京全体の町割が刷新され、この界隈(かいわい)も明治六年(1873)までに、三河町二丁目、皆川町、神田蝋燭町、旭町に再編されました。さらに関東大震災後、これらをまとめて新しい町をつくることが決まり、昭和十年(1935)、四つの町が合併して「司町一丁目」が誕生しました。
 司町の名前は、神田神社の平田盛胤宮司(ひらたもりたねぐうじ)の命名によるもので、「司」が「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味をもつことから名付けられました。
 昭和二十二年(1947)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立したときに神田司町一丁目となり、さらに昭和四十一年(1966)に住居表示の実施により内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)の一部と内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)の一部となり、現在に至っています。
 町名は「内神田」に変わりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ、「司一町会(つかさいちちょうかい)」として存続しています。いまではオフィスビルが多くなりましたが、人情味あふれる楽しい町会であることに変わりはありません。

旭町(あさひちょう)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 1:47 PM
東京都千代田区内神田3丁目10
 旭町(あさひちょう)は、寛永(かんえい)年間(1624~1644)の江戸図によると、能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)と、出羽(でわ)秋田藩の藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷地でした。
 その後、天和(てんな)二年(1682)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり)に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町(ながとみちょう)二~四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治二年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
 旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治(ぶんじ)五年(1189)、源頼朝(みなもとのよりとも)は藤原泰衡(やすひら)を討伐(とうばつ)するため奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)へ向かいました。そのとき常陸国(ひたちのくに)佐竹郷(さたけごう)の武士だった佐竹秀義(ひでよし)は、宇都宮(うつのみや)で頼朝の軍に合流し御家人(ごけにん)となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。
 明治二年、このあたりが、慶長(けいちょう)九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷(かみやしき)だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。  昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)と三丁目(さんちょうめ)の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

多町二丁目(たちょうにちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 12:35 PM
多町二丁目
 多町大通りをさらに北上し、一八通りを右折すると「多町二丁目」の町名由来板があります。この中にある江戸後期の地図には幕府の「青物役所」の文字が見られます。ここに青果市場が開かれ、多い時には九十軒あまりの問屋が軒をつらねていたといいます。
 多町大通りおよび日銀通りの道の下にはわが国初の西洋式下水道の「神田下水」が埋設されています。
 江戸時代、屎尿は農家の貴重な「下肥(肥料)」として畑に運ばれました。それゆえ、欧米の大都市のように川を汚染する事はなく、隅田川は大変きれいな川でした。ところが明治十年に神田周辺でコレラが発生したのです。当時の神田地区は人が多く集まっていたためにとくに被害が大きくなりました。そこで衛生管理の必要を痛感した明治政府は東京府知事に近代下水道の整備を命じたのです。明治十七年につくられた神田下水は、卵形の形状で水量の多少にかかわらず水がスムーズに流れる構造だったので、完成後100年以上を経た今でもその機能を十分に果たしています。そして現在は、東京都指定史跡にもなっています。
  千代田小通りを少し小道に入ると一八稲荷があります。通りの名前にもなっているこのお稲荷さまは江戸初期から町の守護神で、一と八の日に縁日が開かれたのでそう呼ばれるようになったそうです。
 慶長(けいちょう)八年(1603)、徳川家康は荒涼たる武蔵国(むさしのくに)、江戸に幕府を開いて全国支配の中心とするとともに、神田・日本橋・京橋で町づくりを始めました。
 寛永(かんえい)年間(1624~1644)以前に成立した町を江戸古町(えどこちょう)といい、神田には二十二の古町がありました。慶長十一年(1606)に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。
 慶長(1596~1615)のころ、田町一丁目(現・多町二丁目)にできた青物(野菜)市は、草創名主(くさわけなぬし)(江戸成立期からの名主)の河津五郎太夫(かわづごろうだゆう)が開いたとされ、それは明暦(めいれき)の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となりました。市場の繁栄と町の賑(にぎ)わいとともに、町名も「多町」へと変わりました。相対取引(あいたいとりひき)(話し合いで取引すること)で栄えた神田青物市場は、昭和三年(1928)に秋葉原(あきはばら)へと移転するまで約二百七十年間続きました。市場は、江戸・東京の食を供給しつつ、粋(いき)な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。
 関東大震災後に道路や町が整備され、昭和八年(1933)には町名地番が改編されます。これによって三百三十年続いた(旧)多町一丁目と(旧)多町二丁目などが合併してできた町会が、現代の多町二丁目町会です。当時、新たにつくられた(新)多町一丁目は、昭和四十一年(1966)の住居表示の実施で内神田三丁目に編入されたために、今は多町二丁目だけになりました。

多町一丁目(たちょういっちょうめ)

カテゴリー: 未分類 — admin @ 7:23 PM
多町一丁目
JR神田駅西口を出て多町大通りを神田淡路町方面へ行くと、すぐに「多町一丁目」の町名由来板があります。この町はもと「竪大工町(たてだいくちょう)」と呼ばれていました。大工は日銭が入る商売柄でしょうか、「宵越しの銭はもたねぇ」と気風のいいところを見せる江戸っ子が多かったそうです。
町内には、火消しに使う纏をつくる「纏屋」がありました。広い江戸の中でも纏をつくっていたのはここだけで、代々「石田次郎右衛門」を襲名しました。「芝に生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち」と、江戸で流行した端唄にも出てくるとおり、江戸っ子にとってもっともかっこいい存在が纏持ちでした。火事ともなれば燃え盛る家の屋根に上がり、纏をふるって火をはらい、燃え崩れる寸前にとなりの屋根に飛び移るという町火消の中でも難しい役が纏持ちでした。
神田駅周辺の町名には竪大工町のほかに「鍛冶町」「塗師長」「鍋町」などと職業を表す名前があちこちにありました。これは江戸時代から職人達が多く住んでいたためで、「二本差しが怖くって目指しが食えるか」という武士の権威への対抗意識が強く、弱きを助ける男気が強い地域でした。上方から来て日本橋に大店を張る大商人達への敵対心もあって、なにかにつけて「粋」を重んじるのが江戸っ子だったのです。
江戸時代、この界隈には神田竪大工町や、新石町一丁目といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で、寛永年間(1624-1644)には町が成立していたことが『寛永江戸図』などからわかります。
このうち竪大工町には、幕府の御用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語で知られる大岡越前守忠相の名奉行ぶり、「三方一両損」に登場する大工の吉五郎もこの町の住人でした。また、火消しの組の纏をつくる「纏屋次郎右衛門」の店もこの町にありました。
一方、新石町一丁目は、俗に「河合新石町」とも呼ばれていました。明暦三年(1657)の『新添江戸之図』にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。
ふたつの町は、それぞれ竪大工町、新石町と改名しながらも、昭和初期まで存続していましたが、昭和八年(1933)、新たに多丁一丁目となり、町会を結成し、また一部は鍛冶町二丁目に編入されました。
昭和四十一年(1966)、昭和にできた多町一丁目は、住居表示の実施により内神田三丁目と変わり、現在に至っています。

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